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クバ

Author:クバ
次回オフは

1月31日(日) 東京の河川橋梁グループ 日本橋川を歩く

これから幾つかの分科グループをつくっていこうと思います。まずは河川橋梁グループの初イベントです

江戸の母なる川は平川です。平川河口に開けた港町が江戸ですが、家康の江戸入府以降、江戸は大きく変化させられ、現在は平川は消え、その名残を引き継いでいるのが日本橋川になります。この日本橋川を分岐点から、終点まで歩きながら川の様子や橋を眺めてみませんか?江戸から東京への移り変わりが見えてくるかもしれません。日本橋や常磐橋など名橋を見ることもできます

集合 JR水道橋駅 11時半

ゴール 八丁堀駅

水道橋駅~三崎橋~新三崎橋~あいあい橋~新川橋~堀留橋~南堀留橋~俎橋~宝田橋~雉子橋~一ツ橋~錦橋~神田橋~鎌倉橋~新常盤橋~常磐橋~常盤橋~一石橋~西河岸橋~日本橋~江戸橋~鎧橋~茅場橋~湊橋~豊海橋~亀島川~霊岸橋~新亀島橋~亀島橋~高橋~南高橋

途中で見所がある場合は軽く見学します 例 日銀本店など

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2月6日(土) 銀座お買い物散歩&スペイン料理

東京再発見は東京を識るというコンセプトで楽しんで頂いておりますが、ゆるく散歩を楽しむということもしております。お買い物をしながら銀座をぶらぶらしてみましょう。

スイーツや銀座名物、お土産・・・・等々、あれこれお買い物をしながら銀座散歩を緩く楽しんでみませんか?

今回の幹事はナツさんです

12時 有楽町駅スタート

銀座をぐるりと回ります。全行程4kmぐらい。いつもよりかなりゆるゆるです(笑)ゴールは銀座駅

打ち上げ  食事会はスペイン料理のお店を予定しております

バルデエスパーニャ ペロバモス BAR de ESPANA Pero VAMOS
http://r.gnavi.co.jp/a466131/

スペイン料理のお店です。
スペインバルとは、スペイン流居酒屋。
数年前からスペインバルのお店が増えてきてますが、ここは先駆けです。

このお店の親会社はグラナダといって、ミシュランでスペイン料理2つ星を取った日本橋サンパウや、フランス料理3つ星を取ったサンテカンスも経営している会社です。

スペインの特徴あるお料理をあれこれ食べてみたいと思います。

予算は、飲み放題の5千円を考えています。

時間は、17時半か18時~。




散歩だけ 飲み会だけの参加ありです。コミュニティやミクシィ以外の方の参加も可能です。お友達をお誘いして参加しても構いませんよ。お気軽にどうぞ

途中参加、途中退出ありですのでお気軽に参加して下さい。

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日本橋川見どころ
後楽橋とごみ中継所 震災復興事業で昭和2年に架けられた橋。水道橋駅から東京ドーム方面にたくさんの人が渡る。通りは専大通り。橋の上流にある三崎橋ゴミ中継所は文京区と千代田区の家庭から出た不燃ごみをゴミ収集車で回収し、ここから船に積み込んで、羽田沖の中央防波堤埋め立て地最終処分場に運ばれ、資源ごみと分別した後に焼却処理をそて海中に埋め立てています

小石川御門と小石川橋 江戸城の城門の一つ、小石川見附、小石川御門があった。水戸家屋敷の前にあることから、水戸藩邸から江戸城に登城する際に使われたと思われる。小石川橋は当時と同じ位置に架けられていて、門は明治5年に撤去されました。現在の橋は昭和2年に架けられたもの。船河原橋から水道橋までは小石川に住んでいた岩瀬市兵衛に因んで市兵衛河岸と呼ばれたそうです。橋の名前は小石川に通ずることから付いた

三崎橋 神田川と日本橋川の分岐点にかかる、日本橋川最初の橋。江戸時代はこの部分が埋め立てられていたので明治36年以降に架橋されたと思われる。現在の橋は昭和29年に架けられ、歩道部分は昭和62年に架けられた

新三崎橋 明治36年以降、木の橋がかけられていたが震災復興でコンクリートの橋に架け替えられたが、再開発により平成14年に新しい橋となった

飯田町貨物駅跡と讃岐高松藩邸跡 家康入府以前は千代田村と呼ばれた場所で、家康が江戸に入ったときに、飯田喜兵衛がこの地を案内したので、喜兵衛が名主となり、飯田町と呼ばれるようになった。その後、大名、旗本屋敷が置かれ、水戸徳川家始祖頼房の長男頼重を祖とする讃岐高松藩の上屋敷となった。明治に入ると飯田町は正式な町名になり、明治28年に甲武鉄道飯田町駅が開設された。国電の元祖と呼ばれる電車の始発駅となる。昭和8年に旅客営業を廃止し、平成11年3月には廃駅となった。山手線内最後の貨物駅だった。跡地にはJR貨物の本社やアイガーデンエアなどの複合施設などが建設されて再開発された

あいあい橋 新飯田橋という木橋が架かっていたが戦災で焼失し再建されずにいたが、平成13年に再開発に伴って新しい橋が架けられた。飯田橋と飯田町の頭文字をとって、和気あいあいと絡めて地元の投票で決まった橋の名前

新川橋 江戸時代は埋め立てられ堀留となっていた日本橋川がこのあたりから川が始まり飯田川と呼ばれていたようだ。明治に入って新たに川が掘られたので、新川橋。偏在の橋は昭和2年に架けられたもの

Em活性液製造プラント 乳酸菌や酵母菌などの微生物を培養させ、日本橋川に大量投入することによって、長年溜まったヘドロを分解させ水質浄化させる施設

日本橋川、平川 江戸の母なる川といえる平川は現在の神田川、日本橋川の流路を流れ、今の竹橋あたりで日比谷入江に注ぎ込んでいた。家康が江戸に入ると、内堀と外堀を結ぶ道三堀の開削と共に日比谷入江から隅田川につながる日比谷前島を横断する放水路(現在の日本橋川の雉子橋より下流)を造って平川をそこに付け替えて江戸の内湊と外湊を結んだ。その後、日比谷入江は埋め立てられ、神田山を開いた放水路を建設(いまの小石川橋より下流の神田川)、東京湾に流れ込んでいた石神井川も付け替えた。慶長10(1605)年に現在の神田川の流路が完成すると、平川の三崎橋から今川小路堀留まで埋め立ててしまった。これにより江戸市街の洪水を防ぎ、江戸城の外郭を完成させた。江戸時代は御濠と呼ばれ、江戸城外濠の一部であった。明治33年に埋め立てられた旧水路は復活し外濠川となり、昭和39年の河川法改正で日本橋川となった。江戸時代以前は平川の河口に開けた港町は江戸である

傳蔵地蔵 大正12年、関東大震災で被災した橋をかけなおす工事の組頭が傳蔵という名前で、安全祈願のために地蔵を奉納したという。工事後に地蔵が川に投げ込まれて行方不明になってしまったので、地元の人が新しい地蔵を建立したが、以前の地蔵も発見されて二体祀られている。以前は首都高西神田入路の所にあったが現在地に移転された

堀留橋 江戸時代、ここから上流が埋め立てられた。船が入れたのはこの辺りまでだったので堀留橋の名がついた、現在の橋は大正15年の架橋

南堀留橋 江戸時代の右岸は俎河岸という荷揚げ場。現在の橋は昭和3年に架けられた

滝沢馬琴旧居 南総里見八犬伝などの著者で知られる滝沢馬琴は36歳の時に下駄屋の後家と結婚して31年間ここに住んだ。里見八犬伝もここで書かれた。現在はマンションになり敷地内にあった井戸のみが残る。東京都の旧跡

俎橋 江戸時代からまな板のような2枚の板を渡しただけの簡素な橋がかけられていたのが由来。昭和4年に震災復興で鉄筋コンクリート橋に架け替えられた。現在の橋は昭和58年に架け替えられたもの。靖国通りが走り交通量が多い。靖国神社などが遠望できる

九段下ビル 昭和2年に震災復興で建てられた日本でも初めてのころのコーポラティブハウス(雑居ビル)

宝田橋 もともとこの辺りを宝田村といったことに由来する。宝田村の住人は江戸城拡張で小伝馬町に移住させられた。昭和4年に初めて橋が架けられ、震災復興の一環で木橋が架けられた。現在の橋は昭和43年に架けられたもの。橋を渡った先には千代田区役所、東京法務局や合同庁舎があります。以前は大蔵省竹平寮という近代建築の建物がありました。戦前、明治までは憲兵隊下士官の宿舎。その前はフランス公使館、大隈重信の屋敷。江戸時代は旗本屋敷。フィクションの話では清水門がまっすぐに見える位置ということで長谷川平蔵の役宅の位置になる。区役所の工事の時には江戸時代のかまどや木樋(水道管)や明治時代の砲弾など出土した

妙法衛護稲荷神社 祭神宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)詳細は不明。妙法とは仏教の法華経を表すので、仏教と深いつながりを思わせる

外濠の石垣 日本橋川は外濠として機能していたので、外濠の石垣が残っている。首都高建設で無造作に切り崩されてしまった石垣もある

雉子橋 江戸城の雉子橋御門があった。木橋が架かっており、明治6年に門が撤去され、明治36年に鉄橋が架けられた。現在の橋は大正14年に震災復興で架け替えられたもの。江戸時代に外国使節をもてなすための雉や鶏が飼われた鶏小屋があったことが由来

一ツ橋 家康が江戸に入ったときに丸太の一本橋が架かっていたので一ツ橋と名付けられた。寛永年間(1624~1643)になると一ツ橋御門が設置され、見附橋としての橋がかけられる。御三卿の一つ、一ツ橋家はここに屋敷を与えられたことによる。現在の橋は大正14年の震災復興による。

毎日新聞社 御舂屋跡 パレスサイドビルがあった場所は江戸時代が、城中のコメを精米した御舂屋があった。日本三大紙と呼ばれる毎日新聞の本社がある

平川門 この辺りが元の江戸湊で古くから集落があった、太田道灌時代は江戸城の正門で、徳川氏時代は多くの通用門であり、不浄門でもあった。平川門に至る平川橋は江戸時代の姿を伝え、ぎぼしは城内の各橋から集めたもの

気象庁と東京消防庁 国土交通省の外局、気象庁があり、気象、地象、水象の観測や予報を行う。東京消防庁は東京都の消防局で、地方消防において唯一消防庁を名乗れる日本最大の消防組織

丸紅本社と一橋家屋敷跡 徳川御三卿の一つ、一橋家の屋敷があった。一橋家からは11代将軍家斉と15代将軍慶喜は一橋家の出身。慶喜はここに住み、安政の大獄ではここに謹慎した。総合商社として日本の五指に入る丸紅の本社がある。丸紅は伊藤忠商事と同根会社

如水会館 一橋大学が関東大震災で被災するまであった。一橋大学の同窓組織の如水会が運営する石原慎太郎が芥川賞を受賞するときに、石原裕次郎がスカウトされた場所

東京外国語大学発祥の地 1873年、官立東京外国語学校としてこの地に設立された

学術総合センター 学術の研究、交流、情報発信に関する機関が入居。低層階は一橋記念講堂で、国立学校の関係者による会議や学会、講演会が行われる

共立講堂 共立女子学園の講堂で,昭和9年に建てられた。千代田区景観まちづくり重要物件に指定されている。1970年代にはフォークシンガーの聖地と言われ、吉田拓郎、かぐや姫、アリスなどがコンサートを行った。ウィーン少年合唱団が毎年公演をする

共立女子学園 1886年に共立女子職業学校として鳩山一郎の母、鳩山春子が創立した。発起人が34人いたので共立となった

学士会館 旧帝大の同窓組織が学士会で、その活動に使われる建物、国の登録有形文化財に指定されています

新島襄生誕の地 同志社大学の創立者で明治の六大教育家に数えられる新島襄の生誕地

東京大学発祥の地 東京大学の前身、開成学校がここにあった

日本野球発祥の地 明治5年アメリカ人教師ホーレルウィルソンが生徒に教えたのが日本野球のルーツ
小学館 大正11年に相賀武夫が設立した大手出版社。小学○年生女性セブン、Cancanなどを出している、集英社は姉妹社

旧電通本社 広告代理店大手の電通の旧本社で昭和5年に建てられたビルでしたが、惜しくも昨年末取り壊されました

外濠の石垣 乱れ積みという工法で、工事を担当した大名や石工の刻印が石に残っている

錦橋 この付近に一色を名乗る武家屋敷が二つあったことから、二色を錦に変えたともいわれるが定かではない。錦河岸と呼ばれた.。昭和2年に震災復興で初めて橋が架けられた。橋の上は千代田通り

ボルツ 激辛カレーの火付け役。激辛○倍カレーの元祖

護持院が原 徳川綱吉の信任を得た生類憐みの令の黒幕、隆光が開山となって開かれた護持院という幕府の祈願所となった大寺院があったが、綱吉の死後、失脚し、護持院は火事で焼失し廃寺になって広大な火除地となり護持院と呼ばれた。森鴎外の作品、護持院原の敵討などにも描かれ、明治に入ってもまだ寂しいところであったという

学習院開校の地 皇族の学問所学習院は京都にあったが、明治10年に華族学校学習院としてこの地に創立した。明治21年に移転

日清グループ本社 明治33年に正田貞一朗らによって舘林に創立された。日清製粉を中心とするグループ会社。日清食品、日清オイリオとは無関係

太田圓三像 震災復興で活躍した帝都復興院土木局長。弟は詩人の木下杢太郎。神経衰弱のために45歳で自殺した

神田橋 大手町側は柴崎村と言い、家康入府以前から橋が架かっていた。この橋より北を神田と呼んだことによる橋の名前。江戸時代は神田橋御門が設けられ、神田口と呼ばれ将軍が寛永寺に参詣するための道であったので警備も厳重だったという。震災までは木の橋だったが、大正14年に鉄の橋に替えられた。現在の橋は昭和55年に改修された。江戸時代は土井大炊頭の屋敷があったので大炊頭橋とも呼ばれた。

物揚場跡 この辺りは鎌倉河岸と言い江戸時代から昭和30年代まで建築資材などを荷揚げするのに使われていた。千代田区の施設を建設する際に遺跡が出土した。400年の歴史がある白酒の豊島屋も昭和初期までここにあった

日本政策投資銀行 日本開発銀行の後を受けて平成11年に設立された政策金融機関の特殊法人

讀賣新聞本社 販売部数1000万部以上。世界で最も発行部数が多い日本最大の新聞社

産経新聞 フジサンケイグループの新聞社

ていぱーく 日本で唯一の情報通信の総合博物館である逓信総合博物館。

Jaビル 全国農業協同組合中央会と農林中央金庫本店が入る

日経ビル 31階建て。日経新聞本社が入る

NTT大手町ビル NTTの中枢施設が入る。ここがダメになると国内通信網はほぼ全滅するという

鎌倉橋 家康が江戸城を築く際に鎌倉からの石材を陸揚げしたことから鎌倉河岸と呼ばれるようになった。震災復興で橋が架けられる際に鎌倉橋と命名された。昭和4年に架けられた

龍閑川 元禄4(1691)年に開削された。神田と日本橋の境界を成す。川の西端にあった龍閑町にちなむ。幕末に埋め立てられたが、明治16年にふたたび開削された。昭和23年に戦災の残土で埋め立てられてしまった

龍閑橋 大正15(1926)年に造られた日本最初の鉄筋コンクリートトラス桁です。龍閑川に架かる最初の橋。幕府坊主井上龍閑に由来

常盤小 復興小学校で昭和4年に建てられました。東京都歴史的建造物。明治6年の開校
北越紀州製紙 日本第六位の製紙会社。ガラス繊維をシート化したエアフィルタの技術は世界屈指で、アジアにおける半導体、記憶媒体に使用されるエアフィルタのほとんどをこの会社が供給している

新常盤橋 常磐橋には市電を通すことができなかったので大正9年に、市電を通すために架けられた橋。昭和63年に東北新幹線高架建設に合わせて架けかえられたが、橋詰広場の柵に旧橋の欄干を使用している

常磐橋 江戸時代、日光街道に向かう主要ルートで将軍も利用した。江戸五口の一つで常磐橋御門があり、家康入府直後から橋が架けられていた。木橋だったが、明治6年に常磐橋御門が廃止されると、その石を使って明治10年(1877)に石橋かかけなおされた。東京最古の洋式石橋、常磐橋御門の桝形門遺構が残り史跡に指定されています。

渋沢栄一像 設立にかかわった企業は500を超えるという明治の大実業家。渋沢財閥を作らずに社会貢献をした

常盤橋 常磐橋に代わる幹線橋として震災復興で昭和元年に架けられた。

日銀本店 金座の跡に建てられた日本の中央銀行。1896年竣工のネオバロック様式。国の重要文化財、辰野金吾の設計

日銀貨幣博物館 昭和57年に日銀の創立100周年を記念して設置された。貨幣の歴史や、珍しいコレクションを見ることができる。入館無料

東洋経済新報社 ビジネス書専門の出版社。会社四季報が有名

一石橋 江戸初期には架けられていて、寛永年間(1624~1643)には一石橋と呼ばれていたようだ。この橋を挟んで金座支配の後藤家と、御用呉服商の後藤家という二つの後藤家がありました。後藤を五斗と読み換えて、五斗+五斗=一石となるので一石橋と呼ばれるようになりました。 大正11年に鉄筋コンクリートの橋になり震災も戦災も乗り越えましたが、平成13(2001)年に架け替えられました。旧橋の親柱は一基のみ残されています。一石橋は「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれた。橋上に立つと自身も含めて八つの橋(外濠の常磐橋・呉服橋・鍛冶橋、日本橋川の一石橋・日本橋・江戸橋、道三堀の銭瓶橋・道三橋)が見渡せたことが由来で江戸の名所のひとつであった。歌川広重が名所江戸百景において「八ツ見のはし」として描いている。 江戸時代の安政4年に建てられた、迷い子のしるべの石標が現在も残っています。江戸の繁華街にはよくあったものですが、当時のものが現存するのはこれだけです 。左面に 「たつぬる方」(尋ね人)、右面に 「志らする方」(知らせ) と刻まれ、迷子の特徴などを書いた紙を貼り付けるようになっていた。

呉服橋 外濠に架かっていた。呉服橋御門があり桝形門があった。幕府呉服御用の後藤縫殿介(ぬいのすけ)の屋敷があったのでこの名がついたという。

鉄鋼ビル 戦後初の高層ビルとして昭和26年に建てられた9階建てのビル。

丸の内トラストタワー(手前) 森トラストが経営するビルでN館は19階建てでオフィスや店舗が入る。本館は37階建てでシャングリラホテルや観光センターが入る

サピアタワー JR東日本東京駅日本橋口ビルで35階建て。知恵を意味するサピエンスからとった名前。ホテルメトロポリタン丸の内や国立大学など13の大学が事務所を置くなど、さまざまなテナントが入っている

新日本製鉄本社 日本を代表する鉄鋼メーカーで、粗鋼生産は世界第二位

グラントーキョーノースタワー JR東日本のビルで東京駅八重洲口を構成する。43階建てで大丸や大和証券本社が入る。北町奉行所もこの辺りにあった

港屋絵草子店跡 大正時代に美人画で知られる竹久夢二が版画などを売っていた店があった

西河岸地蔵寺 行基が掘ったという本尊が1718年に遠州から移されて創建。延命祈願でにぎわった

うさぎや どら焼で有名な和菓子屋さん

西河岸橋 日本橋右岸を西河岸と呼び、西河岸町という町名があったことに由来する。戦災復興で大正14年に架けられた。平成3(1991)年に改装されたが、橋自体は昔のまま
三井本館 昭和4年に建設された三井グループの総本山。国の重要文化財。三井家が収集した収集した文化財を展示する三井記念美術館を併設

日本橋三井タワー 2005年竣工、39階建て。マンダリンオリエンタルホテル東京も入る

にんべん 元禄12(1669)年創業の約350年続く鰹節屋。世界最古の商品券を発行・・・・弁松

木屋 寛政4(1792)年創業の刃物屋。魚市場にあった。世界に一流品がそろう

タロー書房 オーナーが岡本太郎と親戚だったのでロゴデザインを岡本太郎が行った

三越本店 伊勢松阪の三井高利が1673年に越後屋呉服店として開店。明治に入ると呉服店はデパート、両替商は銀行となった。百貨店、エレベーター、ファッションショー、お子様ランチの発祥の地。建物は1927年(昭和2年) 設計 横河民輔 日本初の自動扉エレベーターや新式のエスカレーターが設置され、話題となりました。正面玄関には、2体の青銅製のライオン像があります。 このライオン像は、前の店舗が竣工(1914年)したときに設置されました。ロンドンのトラファルガー広場のものを模したそうです。 太平洋戦争時には金属類回収令により供出されましたが、 戦後、東郷神社(東京都渋谷区)で溶解を免れていたのが発見され、現在に至っています。

須原屋跡 江戸一番の書物問屋で、出版社の先駆け。武鑑や解体新書の版元

伊勢定 昭和21年創業のうなぎ屋さん。風格ある雰囲気で政財界の人も利用

有便堂 横山大観も愛用した日本画材の店・・・利久庵、ミカド喫茶本店、鮒佐、神茂

山本海苔店 嘉永2(1849)年創業。味付け海苔を発案した。梅の咲くころが上質な海苔が取れるので社標としている

八木長 元文2(1737)年創業。徳川吉宗のころから続く海産物問屋

日本橋魚河岸記念碑 幕府に納める魚をこの辺りで売ったのが江戸の魚河岸のルーツ。江戸時代から続く魚河岸があったが、関東大震災で築地に移転した

日本橋大栄ビル 大栄不動産ビルは辰野金吾設計の東京駅にも似たビルで会ったが建て替えられた。一階受付ホールに昔の丸窓が残る

道路元標 日本の国道の起点。日本橋の真ん中にある。レプリカと東京市道路元標がたもとにある。首都高の高架部分にも元標がある

日本橋 1603年に架橋された。五街道の起点とされ、日本の中心を成す橋として日本橋。陸路の中心でもあり、水運の中心となったので、問屋や商店が集中し、江戸随一の盛り場となった。江戸期の橋はぎぼしがあり、ぎぼしは京橋、新橋、江戸城内の橋にしか許されなかった。現在の橋は明治44年に建設され、震災も戦災も無事であり、国の重要文化財に指定されている。親柱の橋名の文字は徳川慶喜の書。青銅製の麒麟は東京の繁栄を、獅子は守護を示す。日本橋由来の碑がある場所は罪人を曝したり、高札場があった場所

国分 正徳2(1712)創業のK&Kの缶詰で有名な食品関連の会社。住所が日本橋1-1-1

黒江屋 元禄2(1689)年創業。格調高い漆器を扱う老舗。万治元(1658)年銘の日本橋のぎぼしを保存している

栄太楼 安政4(1857)年創業。梅ぼ志飴をはじめ、羊羹、甘納豆など各種和菓子で有名。金座後藤家の車寄せの石を保存

日本橋コレド 江戸時代は白木屋呉服店のあった場所。越後屋、大丸屋と共に江戸三大呉服店と呼ばれる。明治以降もデパートとして発展するが東急に乗っ取られ、昭和42年に東急日本橋店となったが、1999年に閉店し337年の歴史に幕を閉じた。2004年に複合商業施設コレド日本橋となった。20階建て。東急不動産と三井不動産によって経営。マネージメントは三井不動産グループのららぽーとマネージメントが行う

西川 創業は1566年。近江八幡では御三家といわれる名門商家。徳川家康にスカウトされ1615年に日本橋に店を構えた。近江八幡の旧西川家は国の重要文化財。日本最大の寝具メーカー

日本橋御幸ビル 旧東海ビルで東海銀行が入っていた。昭和2年に倒産した村井銀行を引き継いだもので、大正2年の近代建築の意匠を一部に取り込んでいる

野村証券本社 大正14(1925)年に大阪野村銀行の証券部として創立した。1946年に東京に本社を移転。建物は昭和5(1930)年に建てられたリバービューホテルという建物だった。自由様式を模索した安井武雄の設計

たいめいけん 昭和6年に創業した老舗の洋食店。新川に創業し、昭和26年に現在地に移転。現在3代目。凧の博物館を併設しています

日本郵便発祥の地 日本の近代郵便制度は前島密によって明治4(1871)年に東京-大阪間で始まりました。日本橋郵便局がある場所は新制度発足当時、駅逓司(えきていし 今の郵政省)と東京の郵便役所(今の中央郵便局)が置かれたところです」

前島密像 越後の豪農の家に生まれるが、江戸に出て幕臣前島家の養子になる。明治政府に出仕し、大阪遷都に対し江戸遷都を建白した。近代郵便制度の父と言われ、郵便、切手、葉書という言葉も考案した。教育普及のため漢字廃止を唱えた漢字廃止論者でもある

江戸橋 寛永8(1631)年に架橋され、日本橋と並んでいるので江戸橋と命名されたと思われる。江戸時代は倉庫街で、橋ももう少し下流に架けられていた。震災復興で昭和通りは建設され、昭和通りの橋として架け直された。現在の橋は昭和2年に架けられたもので日本橋川最大規模の橋となっている

西堀留川 もとは江戸湾に流れ込んでいた石神井川の河口。流路変更、埋め立てられ堀留となり伊勢町堀と呼ばれた。全国から物資を荷揚げする蔵が並んでいた。明治16年に西堀留川と名称変更。19年に堀の一部が埋められ、昭和3年には震災復興も区画整理ですべて埋め立てられた

三菱倉庫本店 明治20年に東京倉庫として創業。大正7年に三菱倉庫と改めた。昭和5(1930)年に建てられた本社ビルは徒の歴史的建造物に指定されている。三菱財閥の中でも歴史のある会社。日本で初めてトランクルームを始めた会社でもあり、倉庫業界首位、日本最大の倉庫を持ち、不動産や商業ビルの運営などもてがけている

楓川 家康が江戸に入ったときの江戸前島東側の海岸線にあたる。江戸城築城のための資材を陸揚げするための舟入堀の開削残土や江戸城築城の残土で沖合を埋めたて楓川が成立した。昭和35年に埋め立てられ高速道路が建設された

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日暮里、谷中見どころ
太田道灌像 日暮里の高台は道灌山と呼ばれます。太田道灌が築いた出城があったそうで、それに因んで太田道灌像があります
サンマークシティ 日暮里駅前再開発でできた3棟の高層ビル。ステーションガーデンタワー(40階)ステーションポートタワー(25階)ステーションプラザタワー(36階  から成る
駄菓子屋横丁跡 最盛期には120軒もの駄菓子問屋がありましたが、需要の低下で駄菓子屋横丁の8軒ほどに減りました。駄菓子屋横丁は闇市のバラックからスタートした昔ながらの風情で、はとバスも訪れたり、人気があったのですが2004年に再開発によって潰され5軒が廃業してしまいました
ミニカーショップイケダ ミニカー専門店。200円から数十万円のレアものまで扱っています。敷居を高くしないためにも女性店員が対応するそうです
山田屋 三河島コリアタウンの焼肉の名店。支店を再開発ビルに出した
大屋商店 駄菓子屋横丁にあった駄菓子問屋の一つ。再開発ビルに移転
エドウィン 1947年に常見米八商店として中古ジーンズの輸入を始め、1961年に日本で初めてブルージーンズを生産した。日本におけるジーンズ販売の第一位の企業で、本社は東日暮里。2008年に国内最大の旗艦店エドウィンデニムギャラクシーを再開発ビルにオープンした
村山商店 駄菓子屋横丁にあった駄菓子問屋。
遠山 とお山の支店
又一順 本格中華のお店で肉まんや杏仁豆腐など持ち帰りで食べられるものも美味しい
馬賊 目の前で手打ちをしているラーメン屋。パンパンと麺を打つ音が店内に響く。坦々麺が評判
とお山 手打ちそばの美味しいお店。入手困難な日本酒や焼酎も40種類ぐらい置いている。再開発ビルにも支店をオープン
豊田屋 手頃な価格で魚が美味しい日暮里では有名な居酒屋。
酔の助 立川流の落語家さん達の行きつけの居酒屋。サニーホールでは毎月、立川流の日暮里寄席が開かれる
HABUTAE 羽二重団子の支店で、カフェ風
日暮里繊維問屋街 馬喰町、横山町が有名ですがそれに次ぐ規模として日暮里があり、繊維問屋街が形成されていて、服地・織物、服飾用小物、既製服などを扱う店が100店近く集まっている大正時代の初めに、浅草界隈で営業していた古布や裁ち落としを取り扱う業者が「地域一帯を市街化する」という行政指導によって、日暮里地区へ移動してきたのが始まりです。
リンゴ ドレスや各種衣装の専門店
ヘイワ堂 衣料品の格安店で40円から買える品物がある
ホテルラングウッド、サニーホール 区有地にて委託経営されているシティホテル。区のホールであるサニーホールを併設、サニーホールでは立川流の落語会が良く行われる
音無川 石神井川の水を東に分水した用水で、石神井用水、下郷用水と呼ばれた。JR線路に沿って田端、西日暮里と流れ、日暮里から荒川区と台東区との区境を形成し、三ノ輪橋から東へ流れ思川、 山谷堀となって隅田川に合流した。昭和8年に暗渠
谷中生姜 谷中生姜は東京の特産野菜として知られるが、作られていたのは主に低地の日暮里、谷中本村(東日暮里)だった
羽二重団子 文政二年、初代庄五郎が、音無川のほとり芋坂の現在地に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供しました。この団子が、きめ細かく羽二重のようだと賞され、それがそのまま菓名となって、いつしか商号も「羽二重団子」となりました。六代百八十年続いています。昔ながらの生醤油の焼き団子と、渋抜き漉し餡団子の二種類があります。文豪にも愛され夏目漱石、泉鏡花、田山花袋、正岡子規、久保田万太郎・・・・などの作品にも出てきます 。店内には田山花袋の書や、彰義隊が残していった槍や刀、江戸、明治に使われていた商売道具などが展示されています。店の前には正岡子規の句碑もあります
芋坂 谷中から善性寺門前に至る坂。夏目漱石、田山花袋、正岡子規の作品にも描かれる。鉄道施設により寸断され跨線橋で結ばれている
隼人稲荷 詳細不明。隣接して高浜虚子邸があった
善性寺 長享元(1487)年創建。日蓮が布教中に訪れていた関善左衛門に妻が難産だったので、杓子に曼荼羅を書いて与えたところ無事に出産した。日蓮に帰依した関は邸内に小堂を建てたのが始まり。江戸時代には6代将軍家宣の生母、長昌院が深く帰依したことから家宣の弟、浜田藩主松平清武の隠居所となり、松平家歴代の墓地となった。そのため、度々、将軍の御成りがあり、寺の前の橋は将軍橋と呼ばれた。昭和の名横綱双葉山、第55代総理大臣石橋湛山、名脇役で知られる歌舞伎役者中村又五郎、小野派一刀流四世中西忠兵衛の墓がある
御院殿橋 上野寛永寺門跡の隠居所、御院殿の前に架かっていた。昭和8年に暗渠。水鶏の名所であった。下流には水鶏橋、上流には将軍橋
御隠殿痕 上野寛永寺の門主は隠居所につかった300坪の屋敷があった。上野戦争で焼失
子規、虚子別れの辻 正岡子規は自分の後継者に高浜虚子を考えていた。明治28年12月、後継者になることを断った虚子は御隠殿の坂を下り、坂下の辻で二人は別れた
国際理容美容専門学校 理容師、美容師、エステティシャンを育成する専門学校
日暮里南公園 噴水や緑に囲まれた公園。以前は昔懐かしい紙芝居のおじさんが来ることで有名だった。噴水広場が建設省の小さな広場三十選で手作り郷土(ふるさと)賞に選ばれた
竹台高校 1935年 東京市立第四高等女学校(市立高女としては深川・忍岡・目黒に次いで4校目)として下谷区上野公園凌雲院内に設立 。片岡鶴太郎、林家正蔵、いっ平、有吉佐和子、大谷育江(ピカチュウの声優)が在学した。現在の上野公園の噴水辺りを竹の台と呼んだことに由来する校名
円能院 高野山真言宗、インド風の建物
サブロン 2002年ジャパンケーキショーでは準グランプリ、連合会長賞を受賞。パティシエの世界選手権の飴細工部門で優勝したこともある。飴細工ではテレビチャンピョンにも出演
第二日暮里小学校 夕焼けこやけの作詞者中村雨紅がこの小学校に勤務中に作詞をしたと言われる。自筆の夕焼け小やけの碑が建つ
ニューマルヤ 下町の昔ながらの洋食屋さん
東京ねじ会館 ボルトやネット、ねじなどを扱う企業の組合、東部ファスナー協同組合の事務所
シンデレラ 和牛ほほ肉赤ワイン煮が美味しい下町イタリアン
東京桐箪笥工業協同組合 東京の伝統工芸、東京桐箪笥の組合が川俣桐箪笥店内にあります。
壽美吉池地蔵 詳細不明
荒川八中跡 第八、第十、日暮里中学が合併し諏訪台中学となり廃校になりました。現在は諏訪台中学第二グランドです。春日三球(相方のクリトモ一球)、くまだまさしの母校
pop girl 衣料格安店のヘイワ堂系列の女性向けのお店
トマト 繊維問屋街小売りの草分け。本館、ノーション館、アーチ館、インテリア館、セレクト館などある
プルミエール 他のパン屋さんと同金額で1.5~2倍ぐらいのパンが売っている良心的価格のパン屋さん
今枝商店 昭和21年創業以来の建物。本業は氷屋で店頭販売もする。オレンジという衣料の小売り店もやっている
奥山 衣装やドレスの生地が豊富
レモン ヘイワ堂系列 子供服の激安店
斎藤湯 三代続く銭湯で、日本で唯一の三助さんがいます
江戸うさぎ 10円黒糖まんじゅうで人気。肉まんや谷中生姜せんべいなどもある
匠とあきんど 京都の街おこしをしているNPOが開いた戦国、幕末グッズのお店
絵理花 日本ハムファイターズの森本稀哲選手の実家である焼肉屋さん
喜楽園跡 明治34年に土地の小島喜八が田圃を埋め、菖蒲園を作った(堀切菖蒲園のようなもの)が小島氏一代で廃園になった。旧真土小学校改築工事では化石のようになった子亀がたくさん発掘された
吉村昭生家跡 戦艦大和、破獄などの歴史小説を書いた作家。日本芸術院賞はじめ毎日芸術賞、読売文学賞、太宰治賞、大佛次郎賞、菊池寛賞など数々の文学賞を受賞した。2005年79竿で死去。日暮里図書館には吉村昭コーナーがある
花嫁わた 明治14年創業。布団打ち直し、リフォームなど布団を扱う会社。もとは製綿工場で、吉村昭はここの八男として生まれた
前田酒店 東京で唯一、越乃寒梅の代理店。直接行って予約すると二ヶ月後手紙が来てそれを持って行くと越乃寒梅を原価で6本まで買えます。日本酒「日暮里」も売っています
諏訪台中 荒川八中、十中、日暮里中、道灌山中が合併してできた中学校。近くには片岡鶴太郎生家
正覚寺 元和2(1616)年創建。うすさま明王石像が荒川区登録文化財。文化14(1817)年銘。手水場(便所)の神様と言われ、全ての不浄、障害を除くと言われる
国際ジム ロイヤル小林、レパード玉熊、セレス小林など三人の世界チャンピョンを生み出したボクシングジム
某宗教団体洗脳拠点 統●教会の勧誘員が手相を餌に連れ込んだ人たちにビデオを見せたり、様々な手段で洗脳、勧誘する施設
西日暮里駅 昭和46年に開業した山手線で最も新しい駅。千代田線との乗り換えのために開業した
アルハムブラ 創業30年のスペイン料理の店。フラメンコのライブが見られる
開成学園 1871年神田淡路町に共立学校として創立。1924年に関東大震災によって道灌山に移転。麻布、武蔵と共に御三家と言われ、東大合格率日本一。初代校長は高橋是清。作家吉村昭も卒業生
道灌山遺跡 開成学園の第二グランドを中心に弥生時代の竪穴式住居が見つかった。平安時代の住居や江戸時代の溝なども見つかっている
佐竹屋敷と渡辺町 元禄16年(1703)年に水戸徳川家から秋田佐竹家に譲られて以来、佐竹家の抱屋敷となり、衆楽園という山荘があって、城北屈指の名園として文学サロンにもなった。明治に入ると笹や竹が生い茂り佐竹っ原と呼ばれ、大正4年に渡辺銀行頭取渡辺治右衛門が入手して近代田園都市を目指して開発されて昭和7年には日暮里渡辺町の町名がついた。芸術家や文人が移り住んだが、戦災で焼失した
第一号住居址、環濠 弥生時代の住居址と集落を取り囲んでいた環濠があった
ひぐらし坂 道灌山通りから田端駅方面を結ぶために開削された道。平成2年に日暮の里から名付けられた
向陵稲荷坂 開成中学と高校の間の坂で桜のトンネル。向陵稲荷に由来する
向陵稲荷 江戸時代初期より佐竹屋敷内に祀られていたが、渡辺町が開発されるとひぐらし公園(現開成中学校庭、日暮里渡辺町の中心)に移され、渡辺町の鎮守としてまつられた
胞衣神社跡 胞衣を祀るために明治23年に日本胞衣会社によって建てられた神社。ここにあった茶屋で正岡子規は高浜虚子に後継者になることを断られた。大正時代に入ると神社はなくなり鉄道官舎となった
道灌山坂 2006年に地元の要望で命名。道灌山にあることに由来。近くの道灌山幼稚園の園長で多くの著作がある高橋系吾さんが坂の銘板の字を書いたようです
青雲寺 宝暦年間(1751~1764)に下総佐倉藩主堀田相模守正亮の中興と伝わる。四季おりおりの花が楽しめるとして近在の修性院、妙隆寺と共に花見寺と呼ばれた。谷中七福神の恵比寿が祀られている。江戸時代の滝沢馬琴の筆塚、硯塚、船繋の松の碑や文人の碑が残されている
延命地蔵尊 370年前から伝わるお地蔵さんで長野県南佐久郡の法城院にあったが、昭和8年にこの地に移されて以来厚く信仰されている
よみせ通り 駒込染井が源流で不忍池まで流れる藍染川(谷田川)が大正9年に暗渠となると、現在のよみせ通りになり、露店がたくさん並んだので夜店通りと呼ばれた。東京中に知られるほど賑わったが、戦後は露店が禁止され商店街忍になり、よみせ通りの名前が残った
すずらん通り よみせ通りから不忍通りに至る横丁の飲み屋街
坂下平和地蔵 昭和20年、アメリカ軍の空爆で谷中、千駄木では500人以上の死者が出たと言われます。この場所には鹿島湯という銭湯があり、石灰貯蔵庫を防空壕代わりにしていた赤ちゃんを含む23人が犠牲になりました。昭和34年にこの方々の冥福と平和を祈って建立された
コシヅカハム 昭和24年創業。手作りのハムやソーセージを自社製造している
ヤマネ肉店 名物の千駄木コロッケは一個70円。コロッケパンも美味しい
世界湯 谷中にある銭湯で、近くに住んでいた昭和の大名人と呼ばれた古今亭志ん生(しんしょう)も通っていたという
南泉寺 元和2(1616)年に徳川家から土地を拝領して大愚が創建した。本尊は木造聖観音立像。美濃遠山家の念持仏で鎌倉時代の作。その他、銅造菩薩立像、講談師松林伯円の墓が荒川区の文化財に指定されている
法光寺 慶安3(1650)年に赤坂で開基した。四谷に移転した後に現在地に移転した。陸軍少年飛行兵の慰霊碑がある
修性院 天正元(1573)年豊島郡浅草田中村に創建。寛文3(1663)年に現在地に移転した。谷中七福神の布袋を祀り「ひぐらしの布袋」と呼ばれた。青雲寺や妙隆寺と共に花見寺と呼ばれる
妙隆寺跡 元禄7(1694)年に谷中から当地に移転。桜やつつじを植えて庭園化し、青雲寺や修性院と共に花見寺と呼ばれたが経営難から明治時代に廃寺。修性院に合併。東京女子体操音楽学校(後の東京女子体育大学)や映画の撮影所になったり、マンションになった
富士見坂 妙隆寺坂とも花見坂とも呼ばれた。富士山が見えるので富士見坂。東京では数少ない本当に富士山が見える富士見坂である
太平洋美術会研究所 1901年設立の日本最古の美術団体。中村不折、朝倉文夫、長沼智恵子が参加している
高村光太郎の碑 詩人で彫刻家の高村光太郎の母校である第一日暮里小学校には、開校100周年を記念して飯田雅光氏の彫刻フクロウ像像の下にある「正直親切」の碑は、この学校の生徒のために高村光太郎が贈ったもの
西日暮里公園 道灌山にあります。新堀の土豪、関道閑が屋敷を構えたからとか、太田道灌の出城があったから道灌山と呼ばれたと伝わります。古代の遺跡もあり、江戸時代は薬草の種類が豊富で、薬草を採取する人や、景勝地で筑波や日光の連山が眺望でき、虫聞きをする名所でもありました。有名な絵師にも描かれ、明治時代には正岡子規にも愛されました
間の坂 名前の由来は不詳。西日暮里駅から諏方台に上がる坂
諏方神社 日暮里、谷中村の総鎮守。元久2(1205)年に豊島経泰が建立した。太田道灌や徳川将軍家からも大事に扱われた。8月に例大祭があり3年に一度本祭り。荒川区有形文化財に指定されている手水鉢(ちょうずばち)や、日本画の大家・横山大観の筆による拝殿額、かまどの神様「荒神さま」、2基の庚申塔などもあり、眺望もよく下町一帯が見渡せます
地蔵坂 浄光寺に江戸六地蔵の一つがあることから付けられた。坂の下部はトンネルになってJRの線路をくぐっている
浄光寺 諏方神社の別当寺。元禄4(1691)年空無上人の勧請により江戸東部六地蔵の一つ銅造地蔵菩薩が開眼された、元文2(1737)年8代将軍吉宗が鷹狩りで御成りになり、以後、将軍御膳所となった。境内に将軍腰掛け石がある。文化6(1809)年に再建した地蔵菩薩立像もあり、眺望が良く雪景色が素晴らしいということから雪見寺とも呼ばれた
日暮小跡 明治13年に天王寺門前瑞輪寺境内にあった寺小屋がこの地に移転。明治18年に公立日暮小学校となった。大正2年に第一日暮里尋常小学校となり、昭和11年に現在の第一日暮里小学校の場所に移転した
シャレースイスミニ スイス風ログハウスでスイス料理が食べられるお店。語学教室やカルチャースクールも行っている
養福寺 湯島円満寺の木食義高(享保3年没)によって中興されました。江戸時代、多くの文人たちが足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる「談林派歴代の句碑(区指定文化財)」や、江戸時代の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた「柏木如亭の碑」、畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られている。赤くそびえる仁王門は、宝永年間(1704~11)の建立と伝え、門の裏側には広目天と多聞天の二天王像が安置されています。
啓運寺 正保元年(1644)、上野山下(御徒町)に創立しました。明治維新の上野戦争時に焼失、明治18年に当地へ移転しました。毘沙門天は多聞天ともいい、四方を守護する四天王の一つである。毘沙門天は、台座の裏に「寛政九年(1797)八月吉辰、仏師以東光雲」の墨書銘がある。そのほか、境内には、延宝八年(1680)銘の庚申塔がある。この塔には、「三守庚申三戸伏、妙法、七守庚申三戸滅」の銘文のほか三十六名の施主名が刻まれており、区内唯一の日蓮宗系の庚申塔である
経王寺 明暦元年(1655)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。
延命院 開基は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局。家綱出生の際に安産を祈祷した慧照院日長が、三沢局の信施を受け、甲州身延山の七面大明神を勧請。慶安元年(1648)別当寺として延命院を開創したという。七面大明神には、胎内に慶安3年(1650)法寿院日命が願主となり、仏師矢兵衛の手で作られたことを記した銘文がある。秘仏とされ、七面堂に祀られている。これにちなんで、門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂は七面坂と呼ばれる。境内には樹齢600年を超えるといわれる大椎(都指定天然記念物)がある。延命院のシイは、天保7年(1836)開板の「江戸名所図会」巻五の「日暮里惣図」に、現在地と思われる位置に本樹の全容が描かれていて、当時から地域の人々に親しまれた老樹であることが伺われる。
かつては幹周り5.5メートル(平成9年調べ)の巨樹だったが、平成14年(2002)5月に幹内部の腐朽が原因で南側の大枝が崩落し、安全のため現在の樹形に保っている
ダージリン アンティークは家具などあって落ち着いた雰囲気のインド人が作るインド料理のお店
夕やけだんだん 谷中銀座に降りる高低差4mの階段。遺跡があった所に開かれた。夕焼けの名所で下町らしい所から、谷根千の編集者で作家の森まゆみが命名した。猫が多いことでも知られる
ザクロ ハイテンションな店長で知られるトルコ、イラン料理のお店。ベリーダンスや水タバコも体験できる
焼肉サラリーマン 印象的なネーミング。近在の落語家も利用する
延命院貝塚 明治21年東京帝室博物館の関保之助によって発見された縄文時代の貝塚。延命院の西側の崖だったので名付けられた。出土品は荒川区の文化財
谷中銀座 戦後すぐに自然発生的に形成され、下町的な風情が人気を集めた。昭和56年(1981)には東京都の「モデル商店街第一号」として指定された。NHK連続テレビ小説「ひまわり」の舞台
翠屋 100年3代に渡る「花籠(はなかご)」のお店です。花籠とは、お花を摘み入れる竹かごのこと。二代目から荒川区の無形文化財に指定されています。三代目は日本伝統工芸展・伝統工芸新作展に昭和61(1986)年より毎年出品し、NHK会長賞や奨励賞を受賞し、その出品作品は、官公庁や美術館などに収蔵されています 竹は日本産のものを使用します。寒暖・乾湿の差によって鍛えられ、弾力に富み、質が良いのだとか。発明王・エジソンが作った白熱電球のフィラメントも日本の竹だったそうです。また、昔の藁葺き屋根に使われて100年以上燻された「煤竹」を使うのが花籠の真髄なのですが、近年ではそれを入手するのが困難となってしまいました
本授寺 寛文5(1662)年に日音が開基。数度にわたる火災で仏像や書物を焼失した
六阿弥陀道 江戸六阿弥陀詣の四番田端の与楽寺から五番下谷の常楽院(上野広小路)に至る道であった
後藤の飴 大正11年創業3代続く飴屋さんで60種類以上のオリジナルの飴がある
多満留 寄席和風小物のお店。古今亭志ん生親子のグッズがそろっており、志ん生のCD全巻が取りそろえられている
すずき 3代続くお肉屋さんで、元気メンチカツに行列ができる。チャーシューも人気
濱松屋 明治24年創業の履物屋さん。下駄は自分で鼻緒も選べて足に合わせてもらえる
肉のサトー テレビでも良く紹介される谷中コロッケ、谷中メンチで行列のできる店
武蔵屋豆腐店 大正14年創業。おぼろ豆腐が人気
キッチンマロ レトロな雰囲気の洋食屋さん
マミーズ 子供に安全なお菓子を食べさせたいという思いで始められたお店。アップルパイが人気でデパートの催事にも出店する
アネックス勝太郎旅館 宿泊料金が手頃な旅館で外国人観光客の利用が多い
春木屋 昭和2年創業の中華屋さん。昔ながらの味で、ラーメンもメニューには支那そばと書かれている
winning ボクシンググローブのメーカー。格闘技のグローブを中心に製造販売している
旭プロセス製版 三角屋根が連なる姿が昔の工場の風景を残す
谷中福丸饅頭 一個10円の饅頭で種類豊富。多い時は一日2万個売れるという
三四真地蔵 戦災で70名を亡くし、その供養のために昭和23年に建立された。三崎町、初音町四丁目、真島町の三町の地名から一字取って命名された
東京成田山別院 近辺の大地主だった家が行っている成田山を信仰する講
指人形笑吉 露木光明さんが創作した指人形パフォーマンスで水~日、祝日開館。大人3名以上一人500円でパフォーマンスが見られます。 テレビで紹介され注文が殺到したために指人形の製作は数年先までできないそうです
へび道 暗渠となった藍染川は琵琶橋(合染橋)を越えると昔の流路そのままにクネクネと蛇行し、それがそのまま道になっているのでへび道と呼ばれます
菊見せんべい 明治8年創業のお煎餅屋さん。四角いお煎餅が特徴。明治時代に菊人形の小屋が立ち並んでいたことが店名の由来
逢初稲荷 >土地の前の持主から、このお稲荷さんを大事にしてくれるなら譲るといわれて土地を買ったんです。元禄十五年と書いてあるでしょ。川から上ったものらしいですよ。で、うちは大切にお守りして、今でも、毎年初午(2月12日)には皆さんお参りにみえるし、私どもではお赤飯を配るんですよ。入口の石は参道入口のお燈明なの。(内野せきさん)  現在は駐車場
乃池 江戸前のアナゴにこだわる各界の著名人が訪れる穴子鮨の名店
朝日湯 創業90年以上の銭湯。20年前に改築して今はサウナ付。コーヒー湯やミルク湯などを日替わりで楽しめる
福喜稲荷大明神 通路が狭いことでメディアに良く取り上げられるお稲荷さん
菊壽堂いせ辰 元治元(1864)年創業の千代紙、紙工芸品の老舗。もともとは日本橋にあったが、昭和19年に谷中に移転。5代続く
乱歩 マスターは江戸川乱歩の熱烈なファン。猫好きと乱歩ファンが訪ねてくる。店内は小説の舞台にもなったという
大圓寺 開山年不明。上野清水門わきから谷中に移転した。享和3(1803)年に小石川から笠森稲荷が遷座してきた。大正に入ってから笠森稲荷と縁が深い笠森お仙の二つの碑が建てられた。江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘。明和年間(1764年-1772年)、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤(やなぎや おふじ)と人気を二分し、また二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし(つたや およし)も含めて江戸の三美人(明和三美人)の一人としてもてはやされた。1768年(明和5年)ごろ、市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなり、その美しさから江戸中の評判となり一世を風靡した。晴信は当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたという。1770年(明和7年)2月ごろ、人気絶頂だったお仙は突然鍵屋から姿を消した。お仙目当てに訪れても店には老齢の父親がいるだけだったため、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行した。お仙が消えた理由についてさまざまな憶測が流れたが、実際は、幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁ぎ、9人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたという。享年77。大正8年、二つの碑が建てられた。「笠森阿仙の碑」は小説家永井荷風の撰、「錦絵開祖鈴木晴信」碑は、文学博士笹川臨風が撰し、題字は、東京美術学校(現東京芸術大学日受ル学部)校長正木直彦の手になる。六阿弥陀道には煉瓦塀も残っている
谷中小 正門は入母屋式で瓦屋根という古風な作りになっている。正門に続く壁は黒字に白の格子の入ったナマコ造りである。さらに通りに面して大名時計のモニュメントまである。同校は明治35年(1902)の創立で、この校舎は平成3年に完成した。
三崎坂 田端、駒込、谷中の三つの高台に因むとか、付近の地名による坂の名前という。江戸時代に首を振る僧が居たので首振り坂とも呼ばれた
妙円寺 日蓮宗の妙円寺は、円住山と号し、もと本所法恩寺末です。慶長4年(1599)に開山、元禄17年(1704)当地へ移転しました。
妙法寺 日蓮宗の妙法寺は、龍江山と号し、慶長13年霊鷲院日恕が神田に創建、谷中茶屋町への移転を経て当地へ移りました。江戸期は、法華経寺末の触頭でした。江戸初期の刀剣の目利きを家業とし、「寛永の三筆」とか言われ、作庭、陶芸も行ったマルチアーティストの本阿弥光悦と一族の墓がある
正運寺跡 元禄年間に当地に移転し大正時代に廃寺になった正運寺跡から幕臣で儒官だった井戸氏や庶民の墓や埋葬品が出土した谷中三崎町遺跡がある。出土品は台東区の考古資料の有形文化財に指定されている
天竜院 蘭学者の伊東玄朴の墓(都旧跡)がある。肥前国の農民出身の玄朴は、長崎でシーボルトに西洋医学を学び、嘉永2年(1849)、日本最初の種痘所を開設した。これが現在の東京大学医学部の前身となっている。蘭学者として始めて、将軍の侍医を務めたのも玄朴である
本通寺 元和元(1615)年日用が大久保玄蕃頭の帰依を受けて王林寺寺有地に創建。後に現在地に移転した。谷中七福神の毘沙門天を置いて多くの参拝者を集め出店も出るほどだった。彰義隊の拠点となったため山門以外を焼失。現在の本堂はその跡に建てられた仮本堂で、毘沙門堂も大正時代に再建された
竜谷寺 境内に百日咳守護」とか「たんぼとけ」と書かれたお堂があり喘息にご利益があるお寺
明王院 新義真言宗の明王院は、天瑞山歓福寺明王院と号し、慶長16年(1611)2月神田北寺町に開山、慶安元年(1648)当地へ移転しました。もと本所弥勒寺末、御府内八十八ヶ所霊場57番札所です。•木造阿弥陀如来立像と室町時代製作の絹本着色孔雀明王画像が台東区の文化財に指定されています
全生庵 山岡鉄舟居士が徳川幕末明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔う為に、明治16年に建立した。全生庵を寺号とし、居士邸からかつて江戸城の守本尊であった葵正観世音の霊像を遷して本尊とした。この像はもともと日向国にあった大慈寺という寺院にあったもので、のちに京都の東福寺塔頭長慶寺に移され、さらに豊臣家に嫁いだ徳川家康の孫千姫によって江戸城に迎えられました。千姫が亡くなるとこの像は姫の侍女が開いた大塚の大慈寺に姫の遺品とともに安置され「葵観音」の名で知られました。しかし明治維新になってまもなく大慈寺は廃寺となったため、山岡鉄舟がこの「葵観音」を自邸にひきとり、のちに全生庵の本堂に迎えたということです。この像は平安時代後期の作臨済宗国泰寺派で、開山は越そう和尚、開基は山岡鉄舟居士である。又、居士との因縁で落語家の三遊亭円朝、国士の荒尾精、山田良政、岡田満、石油開発者の石坂周造、長谷川尚一、画家の松本楓湖、教育家の棚橋絢子の墓所がある。初代三遊亭 圓朝は、三遊派の総帥、宗家。三遊派のみならず落語中興の祖として有名。現代の日本語の祖でもある。本項目で詳述。近代日本語の特徴の一つである言文一致体を一代で完成させたからである。当時、速記法が日本に導入された。圓朝は自作の落語演目を速記にて記録し公開することを許した。記録された文章は新聞で連載され人気を博した。これが作家二葉亭四迷に影響を与え、1887年「浮雲」を口語体(言文一致体)で書き、明治以降の日本語の文体を決定づけたのである。のみならず現代中国語の文体も決定づけた。魯迅は日本留学中に言文一致体に触れ、自らの小説も(中国語の)言文一致体で綴った。すなわち白話運動であり、ここで中国語は漢文と切り離されて口語で記されるという大改革がなされたのである。円朝遺愛の幽霊画50幅、明治、大正名筆の観音画100幅が所蔵されていて8月の谷中圓朝まつりで1ヶ月間公開される。また命日には落語協会主催の圓朝祭りが行われる。作曲家の弘田 龍太郎は宮城道雄や本居長世らの新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索した。1918年(大正7年)鈴木三重吉によって児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると、やがて「赤い鳥運動」に参加、北原白秋等と組み、多くの童謡を作曲した。代表作に鯉のぼり、春よこいがある。開基山岡鉄舟は剣、禅、書の達人としても知られる。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会。このとき、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという[1]。 西郷との談判において江戸開城の基本条件について合意を取り付けることに成功。その行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。清廉剛直な人物であった
福相寺 創立年間不詳ながら、寛文2年(1662)年に開祖日信が入寂していることから1600年代の創建と推定されます。日蓮宗の福相寺は、松栄山と号し、安房国長狭郡小湊誕生寺末として創建しました。三遊亭志ん朝(志ん生の実子、池波志乃の叔父)が芸の精進のために願かけをしていた虚空蔵菩薩がある
長久寺 日蓮宗の長久寺は、延寿山と号し、延寿院日年聖人(寛永9年:1632年遷化)が開山しました。
かえる屋ケロリン堂 かえるのキャラクターグッズ、オリジナル雑貨を販売するお店
立善寺 しょうぶ寺の異名を持つ日蓮宗のお寺。天和3(1683)年銘の木造閻魔王坐像が台東区の有形文化財に指定されている
防災広場初音の森 セブンラックススポーツプラザの跡に造成された災害時に避難場所となる広場。旧町名の谷中初音町に由来する。被爆柿の木二世も移植されている
蛍坂 坂下が蛍沢と呼ばれた蛍の名所だったことに因む。三年坂、中坂とも言う
岡倉天心記念公園 東京美術学校(現在の東京芸術大学)の初代校長で、古美術の保護、東洋美術の紹介をするなどした日本美術の先覚者岡倉天心の旧居があった。日本美術院は明治31(1898)年岡倉天心が中心になって結成した美術研究団体でここが発祥の地。現在は日本画の美術団体として活動を継続している。園内の六角堂に岡倉天心像がある
宗林寺 日蓮宗の妙祐山宗林寺は、江戸十祖師の一つ舟守祖師として信仰を集めています。江戸時代には、本所法恩寺、浅草幸龍寺とともに京本国寺末触頭を勤めていました。付近は蛍の名所で蛍沢と呼ばれた。また萩の名所で萩寺とも呼ばれた。見廻組を率い清川八郎を斬殺し、坂本亮、あ暗殺にも関与した佐々木只三郎の墓碑がある
長明寺 江戸時代創建の日蓮宗の寺院。徳川家康の家臣「志村七兵衛」なるものが、関が原の合戦で戦死した配下の霊を弔うために建立したんだとか書院・本堂・玄関の鬼瓦らしい。人力車発明記念碑。墓地には、発明者、和泉要助の墓がある。天和二年製の銅鐘は区の文化財になっている。名工鋳物師の椎名伊予良寛の作。徳川綱吉の世に、デフレ対策として貨幣改鋳を進めた勘定奉行荻原重秀の墓がある
七面坂 坂上の延命院にある七面堂に由来する坂名、坂の途中に質屋おぢさんがある
中野屋 大正12年創業の佃煮屋。珍しいウナギの大和煮は中尾彬の好物だということ
谷中せんべい信泉堂 大正初期の創業以来、昔ながらの製法で一枚一枚手で焼き上げ、時間をおいて2度焼きされる。お煎餅は1枚65円~で、一番人気の「堅丸(かたまる)」は、第20回全国菓子大博覧会で大臣賞を受賞しています。
サンゴダールマルジュー メロンパンなど昔ながらの製法でつくられたパンが人気
花家 戦後創業した大衆食堂。先代が白金台で花屋をしていたのが店名の由来。愛川欣也お勧めのジャンボ餃子がある。あんみつやみつまめまどの甘味も美味しいという
川むら 初代は明治時代に数寄屋橋で修業し、白金で創業し現在地に移転して100年以上という老舗。お蕎麦も美味しいが、お酒やつまみも充実している。蕎麦屋で飲む名店
本行寺 本行寺は、大永6年(1526)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永6年(1709)、現在地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。二十世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れた。境内には多くの句碑がある。儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。戦国時代に太田道灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延3年(1750)建碑の道灌丘碑のみ残る。本行寺は大永5年(1525)に太田資高を開基として創立され、以来太田氏の菩提寺となっていました。江戸時代には遠州掛川藩5万石を拝領した太田家とその一族の墓所となりました。天正11年(1583)7月29日に、羽柴秀吉から太田三楽斎資正に宛てた書状をはじめとして、明治期の三点を含む計九点の書状類が本行寺に残されています。また、それに加えて、寛政3年(1791)10月作成の「太田家霊簿」一冊があります
御殿坂  坂下に御隠殿があったことに由来する
ショコラティエイナムラショウゾウ 有名なパティスリー、イナムラショウゾウのショコラのお店
幸田露伴旧居跡 幸田露伴が明治24~26年に住み、代表作五重塔を書いた。近くには北原白秋が三度目の妻菊子と住んでいた
了俒寺 寛永元年(1624)、日安尼によって現在地に創建されました。当初日蓮宗の不受不施派に属しており、感応寺(現天王寺)九ヵ院の中でも唯一寺号を有する寺院でしたが、元禄11年(1698)不受不施の禁令により、時の住職であった妙用比丘尼は入牢を命じられたのち配流、翌年感応寺(現天王寺)とともに天台宗に改められました、本尊の木造阿弥陀如来立像は台東区の有形文化財
谷中霊園 もとは天王寺の寺域であったが、明治7年明治新政府が没収し、東京府管轄の公共墓地、谷中墓地とした。明治22年には東京市に移管。昭和32年に都市計画公園とされて、昭和35年から墓地の貸し付けを行っていなかったが、平成19年から再開。園内の公園整備も進められている。桜の名所で、中央の通りはかつての天王寺参道。天王寺墓地と寛永寺墓地が入り組み複雑な形となっている
中村正直 明治時代の教育家、女子高等師範学校(現お茶の水女子大))校長就任、慶応義塾や攻玉社と並ぶ四大私塾と呼ばれた同人社を設立した。西国立志編や自由之理などのベストセラーを書いた啓蒙思想家でもある
佐藤尚中 幕末から明治の蘭方尾医で、佐藤泰然に入門し、養子となって順天堂病院を創設した
長谷川一夫 抜群の美貌で日本を代表する映画スターとなる。、「若い女性の好きなもの」として「あんミつ」の「ミー」と併せ、長谷川の「ハー」で「ミーハー」と言う言葉が生まれたとも言われる。テレビ界でも人気を博し。1984年に76歳で亡くなると、植村直己と共に国民栄誉賞を贈られた
花柳寿輔 幕末~明治の劇界に君臨した振付師で、日本舞踏花柳流の創始者。60年で1500の作品を振りつけたという
福地桜痴 明治時代のジャーナリストで多くの著作を残し、福沢諭吉と共に天下の双福と呼ばれた。歌舞伎座の創設にも名を連ねた
川上音次郎 明治時代の俳優。自由民権運動に携わり、世情を風刺したオッペケペー節が大流行し、新派劇の俳優となった。妻は当時の人気芸者の貞奴で、その生涯はNHKの大河ドラマで取り上げられた
高橋お伝 様々に脚色され日本三大毒婦と言われ、病床の亭主を毒殺し、強盗を重ね殺人を犯したと伝えられるが、実際のところはハンセン病で村八分となった夫の医療費を稼ぐために娼婦に身を落とすが、介護の甲斐なく亭主は病死。その後、小川市太郎というヤクザまがいのものと恋仲になり、商売を始めるがうまくいかず借金がかさみ、古物商後藤吉蔵に借金を申し込む。吉蔵は一晩を共にすると約束を反故にしたため、憤ったお伝が吉蔵を殺害して現金を奪った。強盗殺人とした逮捕されたお伝は市ヶ谷監獄にて死刑執行。8代目山田浅右衛門の弟吉亮により、日本における女性死刑囚最後の斬首刑に処された。伝の遺体は警視庁第五病院で解剖されて、その一部(性器)は現在東大法医学部の参考室に保存されている。伝の墓に参ると三味線が上達するという評判があり、三味線を習う者の墓参が伝逝去後の現在もかなりあるといわれる
ニコライ 日本でのロシア正教布教に生涯をささげた日本正教会の創建者。聖人に列し信者の崇敬の対象となっている。ニコライ堂のニコライでも知られる。
小花作助 小笠原諸島の歴史を語る上で欠かせない人物。幕府の役人として、小笠原諸島に渡り、明治政府にも出仕し、出張所長として小笠原諸島開発に従事した
菊地容斎 江戸末期~明治の画家で、歴史画の先駆者と言われる
中島歌子 明治時代の歌人。小石川で歌塾萩の舎を経営。門下に樋口一葉が居る
外山正一(とやままさかず)明治時代の教育者、社会学者 幕臣で16歳で開成所(後の東京大学)の教授方になるなど若くして英才をうたわれる。中村正直と共にイギリスに留学。語学力を認められて新政府のもとでもアメリカに留学。日本に帰る東京大学で日本人初の教授となった。日本に社会学を紹介し、日本の社会学の草分けぬなった。神田に正則予備校(今の正則高校を創設)伊藤博文内閣で文部大臣も務めた。日本で最初の軍歌として爆発的にヒットした。この曲は「扶桑歌」「陸軍分列行進曲」とも呼ばれる行進曲として編曲され、旧陸軍から現在の自衛隊にまで受け継がれている名曲である。東大文科大学学長のときの1883年(明治16年)、ある新入生の面接を行った。外山が「君は何の為に勉強するのかね。」と問うと、件の新入生は「我、太平洋の架け橋とならん。」と答えた。この新入生が新渡戸稲造である。英語、英文学教育の充実を考えた外山は、ギリシャ系アイルランド人、ラフカデイオ・ハーンに強く働きかけ東京帝国大学英文学講師に招聘した。ハーンはのちの小泉八雲である。
大原重徳(おおはらしげとみ)孝明天皇に重用された公家で、国事に奔走。明治維新後は政府の重職を歴任した
重野 安繹(すげのやすつぐ)江戸末期~明治の家、漢学者。薩摩藩で薩英戦争の戦後処理を行う。維新後は大日本編年史の編纂などに参加。日本で初めて実証主義を提案した。日本で最初の文学博士
箕作秋坪(みつくりしゅうへい)幕末に活躍した蘭学者箕作阮甫の養子。福沢諭吉の慶応義塾と双璧と言われた洋学塾、三叉学舎を開設し、ここで明治を担う多くの人物が学んだ。洋学の大家でもあり漢学の大家でもあった
菊地大麓(きくちだいろく)箕作秋坪の二男で、父の生家の菊地家の養嗣子となる。ケンブリッジ大学を首席で卒業し、東京帝国大学理学部教授となり日本に近代数学をもたらした。東京帝大、京都帝大学長、学習院総長など歴任し、福沢諭吉の交詢社にも参加。文部大臣など政治家としても活躍した
石原純(いしはらあつし)理論物理学者、科学啓蒙家。アインシュタインに学び、アインシュタインが来日をした時は通訳を務めた。伊藤左千夫のアララギ発行に参加し、岩波書店の雑誌科学の初代編集主任を務めた
大給松平家墓所 徳川家の庶流、。十八松平の一つ。大給松平家からは譜代大名4家、旗本を輩出した。そのうちの一つ岩村藩3万石となった。歴代、奏者番(武家の礼式を管理する)寺社奉行などを要職を歴任した
宮城道雄 筝曲家(そうきょくか)作曲家として知られる。11歳で免許皆伝となり、古典楽器の改良や、新楽器の開発をおこない十七弦などを発明。自ら作曲した春の海は世界的評価を受けた。神楽坂にある記念館は日本で初めて音楽家として建てられた記念館
岸本辰雄 司法省法学校第一期生でパリ大学に法律を学ぶ。日本に帰国後は明治大学の前身、明治法律学校を立ち上げ初代校長
徳川慶喜 徳川斉昭の七男。子供の頃から英邁で知られる。一ツ橋家の養子となる。その後徳川幕府最後の将軍となり、大政奉還をして駿府で隠居生活を送った。維新後は趣味三昧の生活をして当時珍しかった自転車を乗り回し、写真撮影を日常とした(曾孫はプロカメラマン)自動車の運転も行った。朝敵であることを赦免し、華族の最高位である公爵を与えた明治天皇に感謝し、葬儀は仏式ではなく、神式で行ったので徳川家菩提寺には入らず谷中墓地に皇族のような円墳で建てられた。77歳で亡くなり徳川将軍家で最も長命であった(次は家康の75歳)
本居豊穎(とよかい)本居長世 本居豊穎は国学者として有名な本居宣長の曾孫で、国学者として東京帝大、東京女子高等師範学校、國學院で講師を務め、大正天皇の皇太子時代に国学を教えた。和歌の歌集や著書を残す。長世は 豊穎の孫で後継者。祖父の期待に反して音楽家を目指す。東京音楽学校を首席で卒業。同期に山田耕作、教え子に弘田龍太郎、中山晋平がおり、宮城道雄らと共に洋学と邦楽の融合を目指す新日本音楽運動に携わった。野口雨情と組んで次々と童謡の作曲を行った。代表作に七つの子、赤い靴、汽車ポッポなどがあり、十五夜お月さんは長女みどりのたらで有名になり、みどりは童謡歌手第一号となり、童謡レコード吹き込みの第一号となった
津田真道(つだまみち)幕末にオランダで法学を学び、講義録を訳出したものが日本初の西洋法学紹介となる。司法省、外務省の官僚として活躍。法学博士、福沢諭吉らと共に明六社(後の日本学士院)の設立をした
馬場辰猪(たつい)、胡蝶  辰猪は朝野新聞や自由新聞などで自由民権運動を日本に広めた自由民権家。福沢諭吉の交詢社立ち上げの一員となる。胡蝶は弟で、英文学者、翻訳家で島崎藤村や北村透谷らと共に雑誌文学会などを立ち上げた。樋口一葉の理解者でもあった。外国文学に精通し様々な人に影響を与えた
渋沢栄一 武蔵国血洗島の大農家に生まれ、商才に長け、江戸に出て一橋慶喜の家臣となる。明治維新後は大蔵官僚となり、退官後は第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立するなど、多くの銀行の設立に携わった。また実業家として東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長も務め、当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、商業教育にも力を入れ商法講習所(現一橋大学)・大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、早稲田大学・二松学舎(現二松学舎大学)・学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)への寄付金の取り纏めに関わった。また、商人同様に教育は不要であるとされていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。
御隠殿坂 上野の山より御隠殿に向かう通路にあったので名付けられた。JRの線路によって遮断されている
芋坂 山芋が取れたのでついた坂名だという。伊藤晴雨が描いた根岸八景、芋坂の晩鐘には当時ののどかな様子が描かれ、正岡子規や田山花袋の作品にも描かれている。明治15年の鉄道開通で削られてしまった
鏑木清方 明治~昭和に活躍した日本画家。近代日本の美人画家として知られる。三遊亭圓朝像は重要文化財に指定されている、」晩年を過ごした鎌倉には鎌倉鏑木清方記念美術館が建てられている
常の花 出羽海部屋所属の第31代横綱常の花。引退後、出羽の海の名跡を継承。第二代相撲協会理事長。戦後は蔵前国技館建設など相撲の復興に尽力した
田中芳男 幕末~明治に活躍した博物学者、農学者、園芸学者。明治時代に動物園、植物園を構想し、上野公園を設計し、博物館という言葉を生み出した。殖産興業の指導、基礎博物学の啓蒙につとめパリで行われた第四回万国博覧会、ウィーン万国博覧会では責任者として派遣され、元老院議員、貴族院議員など歴任した
広津柳浪、和朗(ひろつりゅうろう、かずお) 柳浪は江戸~明治の小説家。今戸心中、黒蜥蜴など低階級社会の暗部を描いた深刻小説、悲惨小説で有名。永井荷風の師匠。子の和郎も小説家、翻訳家。松川事件の被告の支援でも知られる。娘の桃子も作家となり三代続く作家となった
鷲津毅堂 幕末~明治の儒学者、漢詩人。尾張藩から明治政府に出仕し、文部省や司法省の役人として国づくりに携わった。永井荷風の外祖父
浅田宗伯
伊達宗城
酒井家墓地
横山大観
鳩山一郎
五重塔跡
松田秀雄
小平浪平
加波山事件
安立院
擇木寮
天王寺
紅葉坂
朝倉文夫
牧野富太郎
出羽の海
佐藤泰然
下御院殿橋(トレインミュージアム) 駅の東西を結ぶ橋で、橋の下には京成線、常磐線、東北、上越、山形、秋田新幹線、山手線、京浜東北線、高崎、宇都宮線などの様々な電車が見ることができて、バルコニーなど設置されトレインミュージアムと呼ばれる

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荒川見どころ
都電三ノ輪橋駅 明治44年に日光街道上の駅が開業した。現在の駅は大正2年に王子電軌の駅として開業。二つの三ノ輪橋駅があった。昭和17年、東京市に買収。昭和44年に日光街道上の駅が廃止された。薔薇の季節は美しく関東の駅百選にも選ばれた。昨年、レトロ調にリニューアル

白龍神社 都電駅ホーム両側にある小社。このお社の隣にある店は吉展ちゃん事件の犯人小原保が通っていた店

安井屋 昭和2年に三ノ輪橋電停前に創業。当時は隅田川で投網を打って魚を捕えていた。親子三代続く佃煮屋さん

旧王電ビル  昭和2年に建てられた王子電気軌道の本社ビル。現在は写真館などが入っています

ジョイフル三ノ輪 500mに140店舗がひしめく昔ながらの活気ある商店街

宗屋敷跡 対馬府中藩主10万石格宗対馬守の屋敷があった

三ノ輪橋跡 駅名の由来となった音無川の橋があった。関東大震災後に暗渠。徳川慶喜が江戸を去る時に山岡鉄舟と別れた場所

弁慶 モツの串が1本40円と言うモツ好きには有名な大衆酒場

公春院 周囲4m、高さ14m、樹齢500年、東武13名,の一つ証拠の松はあった。江戸時代に新しい寺院の建設が禁じられていらがだが、幕府の役人が調べに来た時に。あまりに立派な松なので歴史の浅い寺院ではなことを悟って立ち去った。それ以来証拠の松と呼ばれるようになった。天明七年銘太鼓、紙本着色仏涅槃図、寛文十年銘手水鉢などの文化財がある、

栃木屋 カウンター14席の小さなもつ焼き屋さん。塩レバなどが美味しい

南千住仲通り商店街 ちい散歩でも紹介された下町情緒あるのんびりとした商店街

丸善 まるよし 魚問屋が営むテイクアウト専門でウナギの蒲焼や佃煮を販売する。鰻を焼く匂いが良い

眞正寺 寛文元(1661)年浅草より移転してきた。その際、門前町も一緒に移転してきたが荒川区内では唯一の門前町であった。明治2年~明治12年には下谷真正寺町の地名もあった

円通寺 延暦10(791)年に坂上田村麻呂が建てたという古刹。源義家が奥州征伐で得た首級四十八を埋葬して塚を築いたので小塚原という名が生まれたという。入谷鬼子母神、下谷広徳寺とここで下谷の三寺と呼ばれた。百体観音があったが安政の大地震で倒壊した。将軍家光が放鷹をした鷹がとまった鷹見の松があった。上野山戦争では彰義隊士の遺体を埋葬した縁により、上野の山にあった戦争の銃痕残る黒門が移設された。1963年に起きた吉展ちゃん事件で、遺体が発見され吉展地蔵が祀られている。日本で初めて誘拐事件に関する報道協定が結ばれた。また身代金目的の誘拐が重い刑罰を下されるように刑法が改正された。電電公社が電話の逆探知に協力するようになったのもこの事件以降だという。彰義隊の墓や、区内最古と言われる鎌倉時代の板碑がある

青木屋 昭和32年創業。ジャンボパンで有名。大きなコロッケやメンチカツはお店で揚げています

もりちゃん 美味しいと評判の焼肉屋。唐沢寿明のお母さんがやっているお店

魚松 創業77年の魚屋で、当主は荒川区を代表する職人である荒川マイスターに選ばれている

大聖寺 江戸初期に描かれた善導、円光両大師像を所蔵し、荒川区の文化財に指定されている

第三桜湯 昔ながらの銭湯建築を残す銭湯

千住製絨所跡 明治12年に創業した日本で初めての毛織物(ウール)の官営工場。ラシャ場とも呼ばれ軍服や制服の生地となるラシャを生産していた。日本羊毛工業発祥の地でもあり日本の繊維、被服産業の発展に大いに貢献した。。戦後、操業を停止し、昭和24年に足立区の大和毛織に払い下げられたが、昭和36年には工場が閉鎖されて、名鉄に売却され、昭和37年には大映による東京球場が建設された

東京スタジアム跡 1879年に操業を開始した千住製絨所があった。戦後は民間に払い下げられ大和毛織が所有する生地工場となったが、同工場は1950年代に入ると業績が悪化、1962年になるとプロ野球大毎オリオンズ(現ロッテ)の本拠地、東京球場が竣工されました。オリオンズ以外にも東映フライヤーズ(現日本ハム)や、セ・リーグの国鉄スワローズ(現ヤクルト)、大洋ホエールズ(現横浜)など在京他球団の主催公式戦も不定期で開催されていた。球場第一号ホームランを放ったのは野村克也(現楽天監督)日清食品は東京スタジアムでカップヌードルの試験販売を行った。関東地区で初めてカップヌードルが販売された場所であるというエピソードもあります。大毎が倒産したこともあり、11シーズン目の1972年に閉場。1977年に取り壊された。現在は跡地のほとんどが北島康介が練習をしたプールのある荒川区スポーツセンターとなっている。

井上省三君碑、像 旧長州藩士井上省三(せいぞう)は木戸孝允に従って上京。ドイツに留学し、製絨の技術を学んで帰国し、千住製絨所の立ち上げに奔走し、初代所長となった。しかし軌道に乗った明治16年に失火で工場は多大な損害を蒙り、その復興のために奔走し、それが原因で明治19年に42歳の若さで亡くなった。明治21年に職工や職員が偉業を偲んで建立した碑。題字と撰文は交遊のあった外務大臣青木周蔵と東京農林学校教授松野はざまによる

煉瓦塀 千住製絨所の煉瓦塀が荒川区の文化財として一部保存されている

若宮八幡宮 奥州攻めに向かう源義家が隅田川を渡る際に目印に白旗を立てたことに始まり、杉苗八幡とも言う。婦人病に効験があると伝えられ、祈願して治った際には二股大根を描いた絵馬を奉納するという習わしがあるという。近隣の尊崇を受けている。

荒川工業高校 1948年に都立上野高校三河島分室として開校した工業高校

アクロシティ 明治21年に佐久間貞一(さくまていいち大日本印刷の前身秀英舎などを創立)が東京板紙を興し、稲藁を原料として日本で初めて本格的な機械によるボール紙の生産を行った。大正9年に富士製紙に買収され、昭和に入ると王子製紙に合併されました。昭和18年に海軍の軍需工場となり、戦後はボール紙生産が復活して千住製紙となります。昭和58年に十条製紙(現大日本昭和板紙)と合併すると工場は閉鎖されました。1990~1992(平成4)年に32階建ての高層棟を含むマンション、アクロシティになりました。タレントの城戸真亜子さんが住み、国松警視長総監狙撃事件も起こりました。日本の板紙(段ボール)発祥の地です

中山式産業 昭和15年創業の健康、衛生医療品メーカー。快癒器、コルセット、腹巻などを製造販売している

エイケン サザエさんなどで知られるアニメーション製作会社で、デジタル化が進む中、アナログにこだわってセル画を使用している。社名は当時の社長、村田英憲氏の名前を音読みにしたもの

大倉屋 大正3年創業の豆腐屋さん。天然にがり、大豆にこだわりテレビでも良く紹介される

荒川ふるさと文化館 荒川区の郷土資料館。荒川区の歴史が学べる。館内には昭和40年代の住宅が再現されている。明治20年には南千住地区初の公立小学校、瑞光小学校が開校した場所。荒川高校、南千住中学などを経て現在は南千住図書館になった

橋本左内墓旧套堂 昭和8年に回向院にあった橋本左内の墓を保護するために造られた。伊東忠太監修、設計、デザインも当代一流の学者によるもので、近代仏教建築の貴重な文化財となっている。昭和21年に現在地に移転復元した

素盞雄神社 延暦14(795)年、荊石が光を放ち、その光のうちに翁の姿をした素盞雄命、事代主命の二神が現れ神託を告げたという伝承から、二神を祭神とし、石を瑞光石と呼んだ。石を祀った塚を古塚と呼んだので、小塚原という地名ができたという説もある。幕末の嘉永4(1851)年に玉垣を築き、元治元(1864)年に浅間神社を祀った。千住大橋架橋の際にはこの石の根が隅田川まで伸びていて橋脚が打ち込めなかったという伝説もある。素盞雄命は牛頭天王とも言うので、おてんのうさまとも呼ばれる。境内社には福徳神社、菅原神社、稲荷神社、、浅間神社などがある。荒川区内で最も広い地域を氏子としている鎮守。寛永13年銘庚申塔などの文化財や、松尾芭蕉が奥の細道に旅立った場所でもあるので句碑がある。境内にある高さ30mの大銀杏は、この木の皮を煎じて飲むと乳の出が良くなると言われ、絵馬を奉納する習わしが現在も続いている。お祭りは二天棒のみこしが左右に振られ、その激しさは東京随一と言われる

誓願寺 780年奈良時代の創建という。本尊は聖徳太子の作と伝わるが現在は阿弥陀立像を模した版木を残すのみ。徳川家康の腰かけたという榎は残っていない。庚申塔、板碑、汐入開祖の高田氏の墓、親の仇を討ったという狸の伝説が残る狸塚などある

千住の河岸 千住大橋のたもと、熊野神社付近には材木商が多かったという。秩父、川越からの物資の集散地だった。材木や雑穀問屋が並んでこの辺りは河岸と呼ばれた

千住大橋 最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」とよばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と思われる。架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家であった伊奈忠次でも難工事であったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれるほどであった。伊奈忠次が祈願したとされる熊野権現は南千住6丁目に現存しており、この故事が元となって橋が架け替えられるたびに社殿を橋の余材を使って修理、祈願をしたといわれる。また祭礼では橋の南北で橋長と同じ長さの66間の綱をつかって綱引きをして吉凶を占う行事があった。架橋後は「大橋」とよばれ、それまで現在の白鬚橋付近にあった橋場の渡しが佐倉街道、奥州街道、水戸街道への街道だったが、この橋に街道が移った。幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため両国橋等が完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれていたようである。千住大橋は何度も改架、改修が行われ、正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)の計6回に及ぶ(なお、明和の架け替えの際に、ほぼ現在の位置に架け替えられた)。明治18年(1885年)7月1日の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸300年を生き抜いた名橋と言われる。その後、二重の太鼓橋様式の木橋として再架橋され、関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。タイドアーチ橋としては日本最古のものである。昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋された。平成16年(2004年)8月に北岸足立区側の橋下をくぐる全長約31m、幅員2.6mの歩行者専用の「千住小橋」が作られた。以前は橋により堤防テラスが東西で分断されていたが、これにより通過が可能になっている。橋の下ということでホームレス等の侵入・占拠を防ぐ目的として夜間は施錠され閉鎖される。千住大橋の上流側には親柱が一部残されており、平成17年(2005年)1月に橋全体の塗装補修工事が行われた際に、あわせて親柱の復元改修が行われた。使用不能のままになっていた電灯が再設置されるなど架橋当時をできるかぎり復元したものである。はじめの千住大橋の橋杭材は伊達政宗が陸中南部地方から水に強くて朽ちにくい槇の材木を寄進し、明治期の洪水によって流されるまで使われ続けたという根強い言い伝えがある。当時の古い川柳にも「伽羅よりもまさる、千住の槇の杭」と詠まれたほどであった。実際、流されてしまった後も住民たちが槇の杭を拾い集め、火鉢にしたり、仏像に加工して守り神として祀るなど、半ば伝説化していた。その後の調査によってこの高野槇の橋杭が千住大橋の橋下に残っていることが確認され、前述の千住小橋の橋上から、その遺構を確認することができる。旧橋(下り方向)・新橋(上り方向)の二橋で構成されており、旧橋の上流側に東京都水道局の工業用水道専用橋である千住水管橋がほぼ並行する。

熊野神社 1050年源義家の勧請。千住大橋を架けた時にその残材で社殿が修理された。それ以降、大橋の架け替えのたびに架け替えの祈願とその残材で社殿を修理することが習慣になった。材木問屋などが多く並んだ

米倉屋敷跡 下野皆川藩主米倉氏の屋敷だった。わずか20年で屋敷が移転して他の大名の屋敷になったが地元の人は米倉屋敷と呼んだという。現在は天王公園

地蔵堀跡 南千住と三河島の境を成した地蔵堀があった


監竃神社 しおがま神社。詳細不詳

三河島汚水処理場 大正11年に稼働した日本で最初の近代下水処理施設。旧三河島汚水処分場喞筒場(ポンプじょう)施設は、設立当初から稼動し、平成11年(1999)に引退しました。赤煉瓦の建物は国の重要文化財に指定されています。桜やつつじが美しいことでも知られています

荒川自然公園 三河島水再生センターの上に人口基盤で公園を作っています。たくさんの木々花々が植えられ、白鳥のいる池や、季節にはオオムラサキ、カブトムシ、ホタルと触れ合うことができます。またテニスコート、プール、交通公園があり、水再生センターの施設も眺めることができます

町屋斎場 小塚原火葬場が明治22年に当地に移転し、日暮里で開業していた博善社の火葬場も明治37年に移転してきて合併した

泊船軒 臨済宗のお寺で合羽橋海禅寺の末。太田道灌の「七飯八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」とうたわれた山吹の里であるとも言われる。

ときわ食堂 朝の7時から飲める名物食堂

センターまちや 1996年に完成した再開発ビル。22階建てで商業施設が入り、多目的ホールムーブ町屋も入る

マークスタワー 2007年に完成した再開発ビル。28階建てで町屋のランドマーク。低層階は赤札堂などが入り、高層階はマンション。地下鉄町屋駅に直結

乃ん喜庵 昭和22年創業のどら焼きやかきもちが美味しい和菓子屋さん

浜作 昭和42年創業の荒川もんじゃを代表するお店。店内で寄席なども開く。以前は京成高架下にあったが耐震補強工事のために移転した

バーエルマー 看板の無いお店でウィスキーの種類が豊富。アド街でも紹介された

藍染川 谷中千駄木を流れる藍染川(谷田川)が氾濫を繰り返すので大正7年に造られた放水路。谷中三丁目で本流から分岐し、西日暮里駅下をトンネルでくぐり、京成高架に沿って隅田川まで流れていら、昭和35年に暗渠となり、三河島下水センターで処理をして隅田川に流している

花の木橋 交差店名にもなっているが藍染川に架けられていた橋。欄干が残っている

六地蔵 尾久や宮地を経て坂本へ抜ける江戸道が通っていた場所で古くから開けていた。もともとは庚申塚であったが、いつのことか六地蔵と呼ばれるようになった。蓮田の子育て地蔵とも言われます。毎月4の日が縁日

観音寺 三河島は鶴の飛来地で、農閑期には鶴の餌付けが行われていた。将軍家は頻繁に鷹狩りを行い、観音寺は御膳所となった。将軍は正門ではなく。東側の竹藪を切り開いて出入りし、名物の三河島菜が献上されるのが例であった。天文(1532)年頃の開基。敷地の広い大寺だった。本尊は十一面観音

密巌院 観音寺の末寺で天文2(1533)年の開基。三河島大師と呼ばれる。弘法大師御府内二十一か所の十五番、豊島八十三札所、新四国八十八か所の第四十二番の霊場として参詣者を集めた。境内には竜女塚があり、塚上に石標があったが戦後の荒廃で失われてしまった。

清水観音堂跡 正保2(1645)年百姓与次右衛門がこの地に小堂を建立。聖観音を安置したことに始まり、清水堂と称した。その後、堂宇を広げ南千住の誓願寺の末寺となりウナギヤ墓地を設けた。江戸坂東三十三観音の第三札所となった。

ウナギヤ墓地 清水観音堂の墓地であったが観音堂はない。誓願寺の末寺である法界寺が管理している。法界寺で保存している応永31(1424)年銘板碑はここから出土したもの

仙光院と峡田小学校 慶長8(1603)年開基の仙光院(本尊は弥陀三尊、後に不動明王像)があったが幕末に荒廃し、明治初年に廃寺になった。わずかに残った堂宇で寺小屋が開かれていたが、明治16年に荒川区で最初の公立学校峡田小学校は開校した。明治34年に移転し、大正9年に三河島町役場が置かれた。昭和7年には荒川区の初代区役所庁舎になった

三河島の神明社 鈴木一郎氏宅に神明社があったが、関東大震災で崩壊し、大楠は大正7年に枯死し、再建した祠も昭和20年に焼失した。現在のものは昭和30年に再建したもの

観音の道しるべ 元役場道に清水観音堂への道標があった。江戸坂東三十三番こさかけくわんのん 三河島名所 観音堂 右是より板橋 一里十丁、王子 一里半 と刻まれていた

松月堂 明治43年創業。店主は和菓子製造の荒川マイスター。松月最中など昔ながらの製法で和菓子を作っている

荒川公園 荒川区役所に併設された公園で、区民の憩いの場になっている。しだれ桜も有名で春は花見の場ともなる。北村西望むのオブジェもあり、児童公園も併設されている

サンパール荒川 荒川区の区民ホール。様々な催し物が開かれる。昭和11~43年まで旧区役所庁舎が置かれた。区制60周年を記念してレリーフが飾られている

徳栄商事 都電グッズや電車やバスのペーパーウェイト、ネクタイピン、ピンバッジ、キーホルダーなど製造販売している

地蔵堀の石地蔵 交通安全地蔵 元文5(1740)年に浄世寺十三世寛誉が村の安穏と五穀豊穣を願って建立した地蔵。地蔵堀そばの古墳の上にあったが大正14年に現在地に移された。三ノ輪から板橋に抜ける間道にあり、村はずれの良い目印であった。
昭和31年に蕎麦屋の18歳の女性が車にはねられたのを見た地元の印刷業の方が交通安全地蔵を建立した。その御利益があってか参詣者がトラックにはねられたが大した怪我をしなかった。それに喜んで屋根を奉納した

三河島教会 75年の歴史をもつカトリック教会。保育園名のドンボスコで知られている

耳無不動、三峰神社 明治初年廃寺になった仙光院の九世光彗は筑後柳川立花家の家臣で田名網光三郎と言ったが、許嫁のお絹を同藩の佐野兵馬に奪われ、お絹を連れて出奔した佐野を追って江戸に出て仇をうったが、新吉原に売られていたお絹のもとに入り浸ったために上野の寺を追われた。三河島の植木屋久兵衛が同情して仙光院の住職に迎えてくれた。しかし遊び場通いの悪疾がもとで耳が落ち、腰が抜けてしまった。これで発起した光彗は門前の往来に法衣を埋め、袈裟塚とし、その上に片耳の不動尊を安置して台座に道標を刻んで旅人の便を図った。宝暦7(1757)年に光彗が亡くなると、お絹も後を追って門前の松に首をつって死んだ。明和元(1764)年、元の抱え主が施主となって二人の供養が盛大に行われた。その後、この不動尊は花柳病に霊験ありと花街の人の参詣が多くなった。それと並んで三峰神社が祀られている

豊川荼枳尼天 神道における稲荷神が仏教では荼枳尼天となる。豊川稲荷の本尊が荼枳尼天

荒川仲町通り 昔ながらの商店街。食材を扱う店も多く、韓国食材の店も多い。9月には阿波踊りがおこなわれる

宮地稲荷 三河島稲荷とも言い三河島の総鎮守であったという。樹齢650年の大欅が御神木であった。宮地と言う地名はこの神社から名付けられたもの。付近は三河島菜、三河島枝豆の産地であった。脚気に効能があると言われ、境内には新吉原から奉納された手水鉢が残る

浄正寺 文亀3(1503)年開基で江戸時代は広大な敷地があった。室町時代の板碑や江戸時代の石碑、石仏が残る。三河島名主松本市郎兵衛の墓、渋沢栄一撰文による中村宗助翁の碑、桂太郎題字の村松先生記功之碑などがある。昭和37年におこった三河島事故の1周忌に慰霊碑と三河島観音が建立された。

法界寺 長保年間(999~1004)開基、慶長18(1613)年に中興された。江戸時代は将軍の鶴御成りの御膳所にされた。本尊は延宝8(1680)年銘の阿弥陀如来立像。寛永6年3月建立の清水外記の墓、眼病に効能がある長盛薬師如来がある

三河島稲荷 三河島村名主の松本家は松本時計店になっていて石柱の残った祠に神明社があった

峡田小学校 明治16年開校で荒川区で最も古い小学校。峡田の意味は「山裾沿いの田圃」という。江戸時代この辺りは寛永寺峡田領であった

宮地交差点 改正道路と呼ばれた明治通りが開通してから交差点事故防止のためにロータリーが作られ、宮地ロータリーと呼ばれた。その後、交通量の増大により渋滞の名所となって昭和32年にロータリーは撤去。昭和49年に立体交差となった。小さな道も含めると七差路の交差点

村田平十朗の屋敷 高松藩松平家出入りの植木職人で、峡田小学校一帯に屋敷があった。園内は四季の花に一丁に及ぶ築山、鯉の泳ぐ池が明治に入るまで見られた。将軍も立ち寄って休憩したという

伊藤七郎兵衛の屋敷 村田平十郎の屋敷の南。将軍家出入りの植木職人で江戸の三大植木屋と謳われ職人100人を擁し1200坪にも及ぶ広大な屋敷は壮麗を極めた。1万石の格式があったと言われるが明治とともに衰退した

コリアンマーケット 三河島コリアタウンのルーツ。ここから周囲に店が増えていった。元々は1950年代にバラックで始まったが1960年代に火事にあって二階建てになった。狭い通路に住居や店舗が並んで簡易的な屋根がかけてある

上茂商店 大正時代から3代続く芋問屋。最盛期にはリヤカーが店頭に列を成した。現在は添加物を使用していない芋菓子の販売を行っています

苺屋 三河島で美味しいと評判のケーキ屋さん。デミセックと言う焼き菓子に力を入れている

大和水産 マグロで有名なお店。安くて大ぶりなマグロがたくさん食べられます

三河島コリアタウン 江戸時代は純農村地帯でしたが、近代に入ると工業地帯となり、戦後は精肉工場に韓国人の出稼ぎ労働者が多く集まった。済州島出身者を中心としたコリア系住民が多く、朝鮮学校や、在日韓国、朝鮮人団体の支部が行かれ、韓国、朝鮮人向けの美容室や商店も多い。大久保は若い新しい世代の韓国人が多いが、こちらは日本に根を張った古い世代が多い

青木布団店 寝具製造で荒川マイスターとなっているお店

山田時計メガネ店 店主はスイスの時計学校出身。時計技術者として荒川マイスター

三河島事故現場 昭和37年5月3日21:37頃。下り貨物列車が赤信号に気付くのが遅れて安全側線に進入し下り本線上に脱線した。そこに下り取手行き電車が接触して上り本線上に脱線した。桜木町事故の教訓から乗客が線路外に脱出し避難している所に上り電車が突っ込んだ。多くの乗客をはねた上に、上り線上に脱線していた下り電車に衝突、。下り電車の1両目は原形をとどめず粉砕され、2両目、3両目は築堤下に転落し被害を拡げた。死者160名 負傷者296人を出す大惨事となった。この事故によりATS普及は前倒しで行われ、国鉄はスワローズをフジサンケイグループに売却した。栗林一球、三球の一球が犠牲となり、三球は春日三球として再起した。記憶に新しい福知山線の事故死者107名より多い



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池袋、長崎みどころ
要町換気所 首都高中央環状線のトンネル区間にある9か所の喚起所の一つ。浮遊粒子状物質(SPM)を80%以上除去する機能を持った電気集塵機と、二酸化窒素を90%以上除去できる低濃度脱硝装置で浄化処理された排気を、消音装置を通した上で、高さ45mの排気塔から上空約100mに放出・拡散する。 火災があった場合の煙を放出するために高層になっている。沿線住民に威圧感を与えないようなデザインが採用された

新東京木材商業協同組合 山手の材木店で構成する協同組合

カトリック豊島教会 昭和23年に始まった教会。建物は帝国ホテルの設計などで活躍したアントニンレーモンドの設計で昭和30年に建てられた

子育地蔵 鎌倉時代に建てられた御堂から、この辺りは地蔵堂という地名になった。1714(正徳4)年の地蔵と、子育て地蔵が祀られている。道標をかねた舗石建立塔は、谷端川の湿地帯の舗道整備を記念して1801(寛政13)年建立された。1924(大正13)年の馬頭観世音、水洗い観音がある。

小熊秀雄終焉の地 詩人で小説家の小熊秀雄が住んでいた東荘というアパートがあった。池袋モンパルナスの名付け親と言われる。、漫画原作ではSF漫画の先駆的傑作と呼ばれた。39歳で肺結核で死去

御嶽神社 この辺りの農業が盛んだったころから信仰されていました。干ばつの際は雨乞いの祭りも行われていた

長崎八幡神社 江戸時代からあり、鎌倉の鶴岡八幡宮より分霊した御宮である。八幡神社・御嶽神社・羽黒神社の三社の社殿落慶記念碑が建つ。

林武 松本竣介旧居跡 洋画家で国語問題審議会会長を務めた林武と昭和初期に活躍した洋画家松本竣介も住んでいた家があった

城西西アトリエ群 城西学園の西側に画家などが住むアトリエ群があった。跡地にある公園では大江戸線の試作車両が展示されている

城西学園 古河財閥を形成した中島久万吉が創設した。作曲家の来生(きすぎ)たかお、タレントの伊藤克信、元F1ドライバー鈴木亜久里などが在学した

すずめヶ丘アトリエ村 長崎アトリエ村では最も古く、1931(昭和6)年奈良慶が、画家を志す孫のためにアトリエ付借家を10数軒建てたのに始まる。以後周辺に次々と建てられた

池袋モンパルナス 昭和6年ころから豊島区長崎一帯を中心に芸術家向けのアトリエ付き借家群が出現し、長崎アトリエ村が形成された。さくらが丘、すずめが丘、つつじヶ丘、ひかりが丘、みどりが丘と5つに大別され、昭和10~20年ころにはパリ南西部の芸術家集住地域に因んで池袋モンパルナスと呼ばれた。アトリエ村の建物は木造住宅ながら、赤いセメント瓦に大きな天窓に窓というモダンなつくりであった。最盛期には100軒以上のアトリエ付き住宅があり、飲み屋やミルクホール、喫茶店なども多くあった。戦災でさくらが丘などを残して大部分が焼失してしまった

粟島神社 鎌倉時代末期に罔象女(みずはのめのかみ水の神)を祀ったといい、江戸~大正時代に雨乞祈祷が行われた。谷端川の中州(湧水点)に位置し、弁財天を祀る。境内の弁財池は、かつて谷端川の源泉であった。

谷端川 千川入水より分水し、粟島神社などの水を併せ板橋、大塚、小石川と流れ神田川に合流していた

アトリエ村資料室 長崎アトリエ村に関する資料を展示している。土日のみ開館

つつじヶ丘アトリエ 1939~41(昭和14~16)年頃にアトリエ付借家が建てられた。道路沿いにつつじが植えられていたので、つつじが丘と呼ばれた。谷端川沿いにあった

峯孝作品展示館 彫刻家峯孝の使っていたアトリエを公開。700点の作品を見ることができる。日曜のみの開館

熊谷守一美術館 画家熊谷守一が97歳まで創作活動を続けていた旧宅跡に、次女で画家の熊谷榧が設立した。作品を見たりお茶を飲めます

光プロダクション 手塚治虫、石ノ森章太郎などと並び称された漫画界の巨匠の一人である横山光輝が40年間住んだ自宅。代表作は『鉄人28号』、『仮面の忍者赤影』、『魔法使いサリー』、『コメットさん』、『バビル2世』、『三国志』などがある。2004年4月に自宅で全身火傷で死去。近くの千早図書館は横山氏の作品を収集し、鉄人28号の像がある

長府屋 大正時代から4代続き、お多福豆一筋で続いてきたお店。豊島区名品50選にも選ばれています

小鳥のさえずる公園 ハクセキレイ、カワセミ、メジロ、オナガ、ウグイス、シジュウカラなど小鳥や生物の生育場所として保護された空間があり、カルガモの子育てや鳥の水浴びなどが観察できるようになっている。

小祠 秋葉さんという家の角に祀られています

庚申塔と庚申橋跡 昭和43年(1968)頃まで5基あったが、ある日姿を消し、9年後の昭和52年(1977)年3月、練馬区北大泉の山林に放置されていたのが発見され、同年10月に現在地に安置されたものです。最も古い1基は行方不明(庚申塔3基、納経塔1基)。 この祠から50mほど下流に行くと、板橋区立千川親水公園入口に出ます。ここが庚申塔祠が元々あった場所であり、庚申橋が架かっていました。そのさらに先が千川上水と谷端川の分水点です

千川上水 武蔵野市桜堤で玉川上水よりわかれて城北地区を潤した分水。千川通りに沿って流れ豊島区西巣鴨に至る

千早高校 平成15年に牛込商業と池袋商業が合併してできた新しいタイプの進学専門校。ビジネスコミュニケーション科という新しい学科を設置し、英語とビジネス教育を重視した文系大学への進学型専門高校で、2学期制を執る。英語は3年間で23単位を履修する必要があり、こ
れは都立では最多だ

明豊中 千早中、長崎中、第十中の三校が合併してきた。第十中は第十高等女学校内につくられたので、それに因んでつけられた

岩崎水車 千川上水に水車があった、分水路の跡も見受けられる

パティスリーオディール オリジナル商品魔女の指が豊島区名品50選に選ばれている。食べログでも高評価

みゆき 添加物を一切使っていないという草餅が豊島区名品50選に選ばれている

小城山観音 1771(明和8)年造立の馬頭観音。この付近は昔小城山と呼ばれていた。もとは近くの畦道(長崎3-4-11)にあった。死んだ馬の供養のために建立されたといわれ、皮膚病治癒の信仰も集めていた。

小城稲荷 江戸時代からあり、茗荷名はこの付近がかつて小城山と呼ばれていたことに由来する。もと個人の所有であったが、現在は長崎3・4丁目の奉賛会員によって祀られている。

観音堂 金剛院の旧地で、同院の境外仏堂。建物は2階建ての一般民家

庚申塔 延宝8年と寛文2年に建立された庚申信仰の名残を残す庚申塔

西向不動尊 旧長崎村西向(にしむかい)の人たちが大正15年に建立した。この地より北の湧水のある洗い場にあったが耕地整理で現在地に移転。平成11年に再興された

さくらが丘パルテノン 長崎アトリエ村のうち最大のもの。1936(昭和11)年以降、初見六蔵により約60軒のアトリエ付住宅が建てられた。道路沿いには桜の木を植えた。

ギャラリーいがらし 長崎アトリエ村から巣立って行った芸術家について知ってほしいと、地元の絵具店が開いたギャラリー。入場無料

帝銀跡 昭和23年1月26日帝国銀行椎名町支店の行員16名に服毒させ、12名を死亡させ、現金十八万円を強奪した。犯人として逮捕された平沢貞道は確たる証拠もなく死刑判決を受けたが、刑を執行されることなく八王子医療刑務所で95歳で亡くなった。帝銀椎名町支店は昭和25年には閉鎖され、質屋の建物を改装した建物は、現在はマンションになっている。帝銀も現在は三井住友銀行になった。戦後の謎の多い事件

長崎神社 長崎村の鎮守。江戸時代まで十羅刹女を神体としていた。十羅刹女は「法華経(陀羅尼品)」に説く10人の鬼女で、のちに仏法に接し、鬼子母神らとともに「法華経」を持する者の守護を誓った。東側の金剛院が別当寺。神仏分離令後、大宮の氷川神社を分祠し「氷川神社」と呼ばれたが、明治7年に「長崎神社」と改称し、素戔嗚命と稲田姫命を祀るようになった。 毎年5月の第2日曜日に「獅子舞」が行われるので有名。区内に伝わる唯一の民俗芸能として、毎年5月の第2日曜日に長崎神社で奉納される。江戸初期の元禄時代(1688~1704)村の伊佐角兵衛が、病気平癒の御礼に獅子頭を奉納したのに始まるといわれている。独り立ち3匹獅子舞で、腹に太鼓をつけた太夫獅子、仲獅子、女獅子の3匹の獅子が、ササラを持つ4人の花笠と共に篠笛の音に協わせて勇壮に舞い踊る。獅子が舞うのは悪疫退散、五穀豊饒を祈るもので、現在は地域の人々によって伝統行事として守り伝えられている。本殿は嘉永二年(1849)の建立で、扁額は山岡鉄舟の筆になる。境内には小柳稲荷や長崎招魂社がある

長崎不動堂  昭和21年に地域の守護仏として不動明王を祀った。子育地蔵のほかに身洗地蔵、鋪石建立塔、馬頭観世音がある。江戸城の石を使って寛政八年(1796)に建てられたという地蔵は道標を兼ね「下板橋道」「南ほりの内道」と彫られている

金剛寺 大永二年(1522)聖弁和尚によって開創された。長崎神社の別当。明治時代には長崎村役場も置かれた。朱塗りの山門だが、天明の大火の時、江戸市中の罹災者を多く助けた善行により、10代将軍家治から許され、安永九年(1780)に建立された。その装飾は彫りが深く、意匠的・技術的に勝れており、区内では最古の薬医門と考えられる。さて老朽化により傷みも激しく、平成8年に保存修理と両袖塀の復元工事が実施され、往時の美しい姿に蘇っている。ここには武蔵野鉄道の工事で出土した2枚の板碑や庚申塔がある。

閻魔堂出羽三山参詣記念碑  金剛院の境外仏堂・閻魔堂の一角に建つ。1813(文化10)年の羽黒三山参詣と西国・坂東・秩父の合計百観音巡拝記念碑がある。ほかに像容十三仏角柱碑も建つ。


エデン トキワ荘にいた漫画家たちにもよく描かれていた喫茶店。トキワ荘は冷房が無かったのと、ウェイトレス目当てで漫画家たちはここに原稿を描きに来たそうです。山手通りの拡張工事で現在はありません

目白映画社 ゴジラなどで有名な東宝系の映画館。漫画家たちも通った映画館

菊菓堂跡 漫画家たちが毎日のようにコッペパンやフランスパンを買っていたというお店。現在はヤマザキデイリーストア。赤塚不二夫と石ノ森章太郎が金欠のため、一個のコッペパンを分け合って食べたという。前のバス停は椎名町四丁目と言ってトキワ荘最寄りのバス停として漫画にも描かれていましたが現在は南長崎二丁目というバス停になっています

鈴木園 ここのアパートに新婚の新婚の赤塚不二夫、よこたとくお夫妻がトキワ荘から移り住んだ

小野田製油所 良質の白ゴマを、薪の柔らかい熱でていねいに焙煎し、球状の御影石を使った伝統の玉締め法でゆっくり時間をかけて圧搾し、一番絞りの油を和紙の袋で漉した伝統の製法です。できあがったごま油は、透明感のある淡い黄金色である。工場見学もできる

浅田飴本社分室 明治20年に創業したのどあめなどで有名な製薬会社。創業者の名前をとって堀内伊太郎商店としていたが1994年に改称した。本社は神田鍛冶町にあるが営業部と開発部がこちらに移転した

吉津屋米店、八百清 トキワ荘があった時代からあるお店で作品中にも描かれている

二又子育地蔵 宝永7(1710)年に長崎村の有志が村の平安と通行人の安全を祈願して建てた。二又に立っていて道標の役割も果たしていましたが、目白通り拡張のため昭和13年に現在地に移転しました。戦前は4の付く日に縁日が立って大変賑わったという。現在も昭和52年から行われている地蔵祭りが続いている

紫雲荘 昭和34年に建てられた築50年のアパート。トキワ荘だけでは手狭になった赤塚不二夫が仕事場兼寝室として1年間借りた建物が当時のまま現存します。住人が引っ越したのを機に、特別公開として当時の仕事場を再現しています

トキワ荘跡 1953年に出版社の学堂社が手塚治虫を住まわせたことに始まり、漫画家を相次いで住まわせたことから漫画家のたまり場になり、漫画文化の発信地となった。ここに住んでいた手塚治虫、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄など多数の漫画家が有名になったことから漫画家の聖地のように有名になった。老朽化で1982年11月に解体され、12月に再建されたが、バブル最中に地上げにあって更地にされてしまった。現在は日本加除出版の新館社屋が建つ

旧落合電話局 トキワ荘には電話が無く、電話がある時は電話局に呼び出してもらうか、公衆電話に電話をかけに行ったそうです。出版社とのやり取りもここで行ったことでしょう

松葉 トキワ荘とゆかりの深い店で、漫画にも実名でよく出ていることで知られています。昔ながらのラーメンが食べられます

鶴の湯 漫画家たちが通った銭湯。NHKドラマまんが道の撮影にも使われましたが平成3年に廃業

田中正雄の仕事場跡 当時、手塚治虫と人気を二分していた田中正雄が大野屋という旅館の二階の二間を借り切って母親と住んでいた

トキワ荘記念碑 都バスの社宅跡地にできた南長崎花咲公園に建てられた記念碑。漫画家10人の似顔絵と直筆サイン、トキワ荘のブロンズ像がデザインされている

チューダー飴 漫画家寺田ヒロオがトキワ荘の住民にサイダー入り焼酎をふるまってチューダーと称したことにヒントを得て作られた焼酎風味のサイダー飴

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野川見どころ
阿弥陀堂跡 阿弥陀堂は現在ありませんが、「阿弥陀堂霊園」という墓地として名前を留めています。「江戸名所図会」本文に「(延享四年[一七四七]、鶴心という僧、この草庵の廃れたるを興すとあります。石仏の台座には「延享四 丁卯 年 雲相鶴心行者 十月十五」と刻まれています。

東福寺 建立は元和7年(1621年)とされるが定かではない。境内には傾城墓という石塔と一葉松(ひとはまつ)がある。傾城夙妻太夫は鎌倉時代初頭の恋ヶ窪宿場の遊女で、武将畠山重忠との悲恋の伝説が残されている。一葉松は珍しい一本葉の松で、夙妻太夫の一途な思いのあらわれとも伝えられる。もともとは夙妻太夫の死を哀れんだ里の人々が墓標として植えたといわれ、その松は枯れてしまったが、その枝を植え継いだ松が数本ある。

恋ヶ窪用水 江戸時代の明暦3年(1657)に国分寺村、恋ヶ窪村、貫井村の田の灌漑用水に利用するために、玉川上水から久右衛門橋付近から分水してつくられ、恋ヶ窪交差点付近で三本に分かれ、南下する一本を恋ヶ窪村分水と呼んでいたそうです。この分水には姿見の池付近からの湧水も流れ込んでいて、分水の築造により村の収穫量が倍増し、村人の暮らしも豊かになったといいます。その後明治になって、上水に舟をを通すために、分水口が廃止されたので砂川用水(野中新田用水)から水を分けてもらい、これを恋ヶ窪用水と呼ばれ、昭和30年代まで役割を果たしていましたが、その後、汚水が流れそのほとんどが埋め立てられて、昔の面影を失っていましたが、里山の自然を再現するために、ここに整備・復元されました。

姿見の池 姿見の池は、かってこの付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み、清水を湛えていました。その名の由来は、鎌倉時代に、恋ヶ窪が鎌倉街道の宿場町であったころ、遊女達が朝な夕なに自ずらの姿を映して見ていたという言い伝えによるそうです。またこの池は「一葉の松」の伝承の中にも登場します。江戸時代に描かれた「江戸名所図会」にもこのあたりの風景が道興准后の歌を添えて登場しますが、その中に姿見の池らしきものが描かれています。昭和40年代にこの池は、埋め立てられてしまいましたが、平成10年度、環境庁及び東京都の井戸・湧水復活再生事業費補助を受けて、復元再生されています。また周辺の東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」の雑木林と一体になるように整備し、かっての武蔵野の里山自然を回復し保全してゆくものだそうです。現在の池の水源はJR武蔵野線のトンネルから引いた地下水です。1991年10月、関東に接近した台風21号による豪雨の影響で、トンネルにはさまれた掘割式の新小平駅付近の地下水位が異常に上昇し、路盤が隆起、地下水の流入で駅は水没し、武蔵野線は同駅付近が2か月間不通となりました。また、周辺の住宅街でも地下水による浸水被害が発生。このため、武蔵野線のトンネルの地下水を導水して恋ヶ窪谷にかつてあった姿見の池を復元し、その水を野川に流すことになったわけです。 現在は谷戸の奥の東福寺付近で姿を現した水が復元された恋ヶ窪用水を流れ、姿見の池を潤し、水路(途中から暗渠)を通じて日立中央研究所内に入り、所内の湧水と合流して中央線の下をトンネルでくぐって野川に流れています。

東山道武蔵路 平成9年度に、ここの恋ヶ窪谷で、古代の道の発掘調査が行われ、古代の武蔵国府と上野国府を結ぶ駅路で「東山道武蔵路」と呼ばれる道です。ここから南のJR中央線の南の台地上にある旧国鉄中央学園跡地などから検出された遺構の調査により、側溝を伴った幅12メートルの道路で、路面が踏み固められた道跡が出土していましたが、ここの道跡は、丸太で枠を作り木杭でおさえ、葦や木の枝を敷き、石を並べ、さらに赤土と黒土を交互に積み重ねた構造をしていました。これは、湧水が多い谷の湿地に対応するためと考えられ、古代の土木技術の貴重な資料であり、当時の谷の自然条件を示しています。 国分寺市教育委員会の文化財課で許可を頂き説明板の東山道武蔵路の図を掲載させてもらいました





柄鏡型敷石住居跡 今から四千年前の縄文中~後期のころの住居の跡。国分寺市内には11軒発見されています。国分時本町四丁目アパート建設によって発見されたものの中でもっとも保存状況が良好だったものを再生復元した。形が柄鏡に似ているので名付けられた

だんごの輪島 ボクシング元チャンピョンの輪島功一さんが経営する団子屋さん。ファイト最中(ボクシンググローブの形)や団子三姉妹などの商品がある

でんえん 中央線沿線では老舗の名曲喫茶。国分寺にもたくさん名曲喫茶があったが残っているのはここだけ。店内は昭和32年開業のまま。以前は漫画家たちのサロンのようになっていて、ゴルゴ13のさいとうたかおや漫画家残酷物語などの永島慎二らが通った

ほら貝 日本初のロック喫茶と呼ばれた。部族(ヒッピー)の拠点だった。2008年8月に閉店

電車開通記念碑 甲武鉄道が国に買収され、国分時まで電化され電車が走ることになったことを記念して大正11年11月21日に建てられた記念碑、この付近は札之丘と呼ばれる高札場が立てられていた土地だった

本町八幡神社 国分寺の本村たる本町の八幡様。大祭は盛大な山車が出て本町囃子で賑わう。境内社に穀豊稲荷、子育弁天

日立中央研究所 元今村銀行(明治21年設立。後の第一銀行)の頭取今村清之介の長男である今村繁三:昭和31年没)の別荘地であった。昭和17年に日立が買収して中央研究所を設立。日立の創業者小平浪平の「よい立木は切らず によけて建てよ」という意志を受け、構内の樹木は極力守られました。樹齢百年余の欅やヒマラヤ杉の大木。構内には約120種2万7千本の樹木が茂っていますが、中には化石期の植物といわれるメタセコイアなど珍しい植物もあります。ここにある大池は、構内数か所から湧き出る湧水を湿地帯に集め昭和33年に完成したものです。白鳥、マガモをはじめ、林に群れる野鳥は、コジュケイ、ムクドリ、シジュウカラなど40種を越えます。国分寺崖線の湧水を集めて流れる野川の水源ともなっており、年に二度、春と秋の2日間だけ一般開放されます

返仁橋 - 日立製作所中央研究所敷地内

ほんやら洞 1973年開業昭和の香りがするお店。フォークソングシンガーの中山ラビさんのお店。ミュージシャンなども贔屓にしていた。コーヒーにこだわりのある店だが、カレーも美味しいことで評判

ピーターラビット跡 作家の村上春樹が経営していたジャズ喫茶ピーターラビットがあった。昭和49年に開業

殿ヶ谷戸庭園 大正2年~4年に江口定條(後の満鉄副総裁)の別荘として整備され、昭和4年には三菱財閥創業家の岩崎彦弥太が別邸として買い取り、津田鑿の設計で洋風邸宅、数奇屋風の茶室(紅葉亭)などを追加整備した。昭和40年代の再開発計画に対し本庭園を守る住民運動が発端となり、昭和49年に都が買収し、整備後、1979年(昭和54年)4月より有料庭園として開園しました。庭園の名称は、昔この地が国分寺村殿ヶ谷戸という地名であったことに由来します。 武蔵野の自然の地形、段丘の崖にできた谷を巧みに利用した「回遊式林泉庭園」。崖の上の明るい芝生地と崖下の湧水池、樹林で雰囲気が一変する造園手法がみどころのひとつです。洋館が残されていて資料室になっています。昔の写真が見られるので岩崎家の別邸だったころの様子も見ることができます。

馬頭観音の石碑 文政7(1824)年に国分寺村の本多氏によって建立されました。市内に現存する馬頭観音碑11基のうちの一つ。路傍にあったものを移設した


次郎弁天の池  殿ヶ谷戸庭園の中にある池です。昔、この付近に弁天様が祀られていたことが名前の由来です。弁天様の付近は湧水の湧く窪地で、次郎弁天の清水と呼ばれていたそうです。この地に別荘を造成するときに湧水を集めて池を造成しました。今では次郎弁天がどこに祀られていたのか、次郎弁天の名前の由来などわからなくなってしまったそうです。池の付近に湧水がこんこんと湧き出ているのがわかります。池の水は野川に向かって流れ、暗渠となって野川に合流しています。野川の水源の一つです

タツノコプロダクション 漫画等の原作を元にしないアニメを提供する企業で、そのため作品にかかわる権利の9割を自社保有している。作品としてはマッハGOGO、ハクション大魔王、いなかっぺ大将、ガッチャマン、改造人間キャシャーン、タイムボカンシリーズなどはある

中央線水路トンネル 野川の源流は日立中央研究所を流れ出ると、JR中央線にぶつかります。中央線は谷を築堤で越えているので、水路は築堤をトンネルでくぐって住宅地に流れ出てゆきます

押切橋 玉川上水開削以前に、幕府が野川の水に目を付け、府中宿に水を引こうとしたが、工事を始めたものの、出水すればたちまち堰が押し流され計画は破棄された。水勢に押し切られたことから付近に押切間の字名がついた

多喜窪通り 押切橋とあやめ橋の間の多喜窪通りを築堤で越えます。古くは滝窪、滝久保とも書かれた地名で、湧水が滝のように流れていたと思われる

あやめ橋

緑橋 押切橋の項に書いた話は実際はこのあたりであったという

お鷹の道 江戸時代の寛永元年(1748)に国分寺市内の村々は、尾張徳川の御鷹場に指定され、慶応三年(1867)に廃止されるまで村人の生活に多くの影響を与えていました。断線下の湧水を集めて野川にそそぐ清流沿いの小道はいつのころからか「お鷹の道」と呼ばれ、昭和47年~48年に国分寺市が遊歩道として整備しました

真姿の池湧水群 元町用水の水源で、元町用水は野川と合流しているので野川の水源の一つとなっています。昭和60年3月に当時の環境庁(現 環境省)から、名水百選に選ばれました 。真姿の池の由来は嘉祥元年(848)不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて21回参詣すると、一人の童子が現れ、小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところ、たちどころに病は癒え、元の美しい姿に戻ったという説から来ています

真姿弁財天 真姿の池のほとりにある弁天、新編武蔵風土記稿にも出ている。湧水の上には稲荷社がある

山崎商店 表札と看板の店で、23万個の表札、看板に囲まれている。吉田茂に表札を献上し有名になったそうである

元町用水 野川の水源の一つです。姿見の池やハケの湧水を水源とし、昔は田畑を潤していました。清冽な流れにはホタルが生息し、その餌になるカワニナが放たれています。不動橋のあたりで野川に合流

東鮨 先代は太宰治が贔屓にした三鷹にあったウナギの店若松屋。ウナギのかごを玉川上水に取りに行き太宰の遺体を発見した。その2年後国分寺に移転後、様々な商売に転業したが、現在のご主人が鮨屋を始めるとウナギのレシピを伝授した

不動橋 近くに不動明王碑があることに由来する

庚申塔、石橋供養塔、不動明王像 庚申塔は延享(1745)年に国分寺村の人が建てました。石橋供養碑は天保3(1832)年銘。常に人に踏まれている石橋を供養する意味と石橋を渡って村内に悪疫や災いが入り込まないようにする意味がある。不動明王碑も村内に災厄や疾病が入り込むのを防ぐ意味があるといわれています。いつだれが建立したか不明。花や絵馬が飾られ信仰の対象になっています

一里塚橋 武蔵国府からの一里塚があったと思われるが現在は不明 元町用水が合流する

もみじ橋 欄干に紅葉があしらわれ、紅葉が植えられている

丸山橋 この辺りの高台を丸山といった

平安神社 創建は嘉永二年(1849)「孝明天皇一ニ一代徳川家慶十二代」の時代と伝えられている。祭神は菊理媛神(くくりひめのかみ)で、別名「白山媛」と云われ加賀(石川県石川郡)の白山頂上に白山比 神社として祀られている女神で、この神の分霊をこの地に招き迎えて祀った神である。時代は定かでないが、町の人達が平穏な生活ができるようにと平安神社と改名され、国分寺東部の守護神として「火」を司る神として崇敬されている。菊理媛神は伊弉諾尊が伊弉冉尊を追い黄泉国に至り、同国から逃げ帰ろうとして黄泉国宮坂でニ尊が言い合いの時、菊理媛が間に立ってニ尊の言葉を伝えて、両者の間を調和し相互の主張を聞き入れて助言をしたことにより伊弉諾尊が無事に死の国(黄泉国)を脱出することができたと云われている。

平安橋 平安神社に由来する

長谷戸橋 この辺りの古い地名「はせど」に由来する

鞍尾根橋 ここから先はコンクリート護岸ではなくなる、くらぼねは断崖の連続する段丘崖を意味する言葉ともいわれる

東京経済大学 1900年に大倉財閥の大倉喜八郎が大倉商業学校として赤坂に設立。1949年に国分寺に移転して東京経済大学となりました。卒業生には歌手のスガシカオ、 巨人軍の命名者鈴木惣太郎、 - サンフランシスコ・ジャイアンツ投手(元阪神タイガース) 藪恵壹、 森ビル創業者森泰吉郎、大映社長だった永田雅一、参議院議員薬害エイズ訴訟原告川田龍平などの諸氏を輩出しています

新次郎池 東京経済大学内にある野川の水源の一つです。大学の構内にあり、5か所の湧水の水を集めて北澤新次郎学長(1957~67年)に池として整備され新次郎池と呼ばれるようになった。以前はワサビ田としても利用され、東京の名水57選にも選ばれている。

くらぼね坂 大学の横の坂道です。昔は急坂の東が切り立つような赤土の崖で、雨の降る時などは人も馬も滑って歩くことができなかったそうで、鞍(馬)でも骨を折ることから名付けられたそうです。

貫井神社 祭神:市杵嶋姫命、大己貴命 雨乞い・学芸成就・商売繁盛他 創建は天正十八年(1590)この湧水の出る景勝の当地に水の神である水神様を貫井弁財天と称し、氏神様として祀った。江戸時代貫井村の鎮守。明治維新の神仏分離令例祭により、明治八年(1875)厳島神社と改称、更に貫井村字一ノ久保鎮座の貫井神社を合祀、以降村社貫井神社と称した。 本殿は宝永六年(1709)に改築し立派な彫刻を施した文化財として価値あったが昭和六十年(1985)火災で焼失、翌年十二月に総桧材流造の本殿の復元と併せて渡廊・玉垣。神橋も復元竣工した 。ハケから湧水があり東京の名水57選に選ばれている。野川の水源の一つ

貫井のプール跡 豊富な湧水は大正12(1923)年、体育向上と精神鍛錬のため、湧水を水源とした50mプールをつくれる程でありました。貫井水泳場と呼ばれ昭和49年まで続き、現在は駐車場になってしまいました。貫井プールの碑が建っています。この湧水が小金井の地名の由来になり(諸説あり)、地名や神社の名前の貫井は温かい水が湧き出てきたので温井から貫井になったという説があります

貫井遺跡  貫井神社の崖上の武蔵野段丘上に、市立第四小学校校庭を中心に広がり、崖線(はけ)下の湧水を立地条件とした集落跡の貫井遺跡がある。  昭和十四年(1939)からこれまで二十数回におよぶ発掘調査が行われ、縄文時代中期の中頃から末期(約四千五百年~四千年前)の住居跡約五十軒のほか、墓や貯蔵用の穴がまとまって発見されている。この集落は墓穴などが密集する中央広場を取り囲むように住居跡が巡っており、縄文時代中期によく見られる環状集落と考えられる。 出土品には多数の縄文土器や石器、土偶、大珠と呼ばれる貴重な石製の胸飾り等がある。 また、旧石器時代(約三万~一万二千年前)の石器や縄文時代早期前半(約九千年前)・後期前半(約四千年~三千五百年前)の遺物も出土している

真明寺 貫井神社の別当寺。大日如来が本尊、真明寺の創建は明らかでないが、かって本寺であった府中妙光院の記録では、中興の時を永禄十二年(1569)、創建者を海宥としているが実証する資料はない。小金井市誌では、尊祐が中前にあった真明寺の前身と、当寺の近くにあった大日如来堂とを合わせ、延宝六年(1678)この地に移築したと述べられている。この説は真明寺に保存されている開山尊祐の位牌に記された没年(1694)や、遺跡の存在から真実に近いとみられる。

弁天橋 貫井神社がむかし貫井弁天と呼ばれていたことに由来する

野川旧河道 曲がりくねった野川は河川改修によりまっすぐにされました。昔の旧河道は遊歩道になり、貫井神社の湧水が導かれ湧水の道と呼ばれています。ザリガニ捕りなどできるようです

西之橋 

寛政六年庚申塔 寛政6(1794)年に建立されたもので正面には「絶三尸罪(ぜっさんしざい)」と刻まれており、これは都内でも珍しく貴重なものだということです。庚申信仰は中国の道教に起源をもつ民間信仰で、「三尸(さんし)説」に基づいています。人の体内には三尸の虫という虫がいて、これが60日に1度巡ってくる庚申(かのえさる)の日の夜、人が眠っている間に体内から抜け出して、その人の悪事を天帝に報告に行き、天帝は悪事の大小に応じてその人の寿命を縮めると考えられていました。そのため、人々は庚申の日に集まり、三尸の虫が出ていかないように夜通し寝ずに過ごしたわけです。これを庚申待といい、3年で18度の庚申待を続けると、それを記念して供養塔を建てたということです。 塔の側面には「右小川・すな川道、左こくぶんじ道」という道しるべがあり、台座には「貫井村講中」と刻まれています。

閻魔堂木造閻魔像坐像 貫井共同墓地(大墓)の閻魔堂にあり、閻魔王坐像(像高75cm)を中心とする十王(一体欠)などの小像や天秤(てんびん)などの諸像具が一括して残されている、閻魔王を中心とする諸像及び仏具は、地獄(じごく)思想に基づく、信仰の対象として、貫井村の人々によって天保(てんぽう)6(1835)年頃に造られた。小金井市の重宝に指定されている。閻魔堂は年4回、正月、春秋の彼岸、お盆に開帳されるそうで普段は見ることが出来ません。「イイキリ」の大木があり。初冬、大きな葉っぱが落ちると赤い実の房がたくさん成っているのが青い空に映えて綺麗ですが、これが見られるのはせいぜい一週間とのこと、ヒヨドリなどの野鳥が食べ尽くしてしまうのだそうです。

貫井新橋

坂下橋

小金井大勝軒 東池袋大勝軒の系列。大勝軒ののれん会にも属す。行列のできる店

貫井大橋 新小金井街道に架かる

はけのうえ遺跡 武蔵野段丘上にあり、旧石器時代(約1万2千年~3万年前)の石器や石焼料理場の跡、 また、縄文時代早期前半(約9千年前)及び後期(約4千年前)の住居跡が発見されています

貫井大坂 (質屋の坂) 貫井トンネルの西側、 曲がりくねった長い急坂で、 現在も部分的に残っている。 昔は、 「質屋の坂」とともに、 府中から所沢、 志木へ通う商人たちが多く利用した。「つづら折の坂」(貫井大坂)とも呼ばれ新小金井街道の貫井トンネルの開通まで、ジグザグに折れ曲がる「九十九折りの坂」があった。貫井村方面から貫井新田、小平、志木方面に通じる古い幹線道路で、 「貫井大坂」とも呼ばれた。と記載されています。 ただ、坂は現存していないとのことです。

滄浪泉園  明治 ・大正期に三井銀行等の役員、 外交官、衆議院議員など歴任した波多野承五郎氏(雅号・古渓)により、 武蔵野の特徴的な地形である「ハケ」とその湧水を取り入れた庭園を持つ別荘として利用されて来ました。 その名の由来は、大正8年、この庭園を訪れた犬養毅(雅号 ・木堂)元首相によって名付けられました。 「手や足を洗い、口をそそぎ俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭」との意味を持っています。 入口前にある石の門標の文字は、 木堂翁自らの筆によるものです。昭和に入って三井鉱山の役員であった川嶋氏の手に移り、茅葺の大きな家や長屋門などが風雅なたたずまいを見せていました。 然しながら、その後宅地化の波の中でマンション建設計画が起こり、 存在が危ぶまれましたが、 多くの市民の要望が実り、昭和52年東京都による緑地保全地区の指定 ・ 買収を受け都民の財産として残していくことになりました。滄浪泉園は、古代多摩川が長い年月をかけて南西に移って行った過程で作った、最も古い段丘の一つに位置しており、 この斜面は 国分寺崖線と呼ばれ、 立川市の北東から世田谷区の野毛町まで続いています。 崖下の砂礫層からは 豊かな地下水が湧き出て、「ハケ」と呼ばれています。これらの地域では、多様な植物が生育し、多くの生物の棲息を可能にしています。 滄浪泉園内には、 杉、 赤松等が数多く残り、 フデリンドウ、 ニリンソウ、 ギンラン等の野草も見られます。 開園に際しては、 これらの動植物、 地形等の自然をできるだけそのまま残すようにと、 慎重な配慮のもと整備されました

弁車の坂


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