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クバ

Author:クバ
次回オフは

1月31日(日) 東京の河川橋梁グループ 日本橋川を歩く

これから幾つかの分科グループをつくっていこうと思います。まずは河川橋梁グループの初イベントです

江戸の母なる川は平川です。平川河口に開けた港町が江戸ですが、家康の江戸入府以降、江戸は大きく変化させられ、現在は平川は消え、その名残を引き継いでいるのが日本橋川になります。この日本橋川を分岐点から、終点まで歩きながら川の様子や橋を眺めてみませんか?江戸から東京への移り変わりが見えてくるかもしれません。日本橋や常磐橋など名橋を見ることもできます

集合 JR水道橋駅 11時半

ゴール 八丁堀駅

水道橋駅〜三崎橋〜新三崎橋〜あいあい橋〜新川橋〜堀留橋〜南堀留橋〜俎橋〜宝田橋〜雉子橋〜一ツ橋〜錦橋〜神田橋〜鎌倉橋〜新常盤橋〜常磐橋〜常盤橋〜一石橋〜西河岸橋〜日本橋〜江戸橋〜鎧橋〜茅場橋〜湊橋〜豊海橋〜亀島川〜霊岸橋〜新亀島橋〜亀島橋〜高橋〜南高橋

途中で見所がある場合は軽く見学します 例 日銀本店など

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2月6日(土) 銀座お買い物散歩&スペイン料理

東京再発見は東京を識るというコンセプトで楽しんで頂いておりますが、ゆるく散歩を楽しむということもしております。お買い物をしながら銀座をぶらぶらしてみましょう。

スイーツや銀座名物、お土産・・・・等々、あれこれお買い物をしながら銀座散歩を緩く楽しんでみませんか?

今回の幹事はナツさんです

12時 有楽町駅スタート

銀座をぐるりと回ります。全行程4kmぐらい。いつもよりかなりゆるゆるです(笑)ゴールは銀座駅

打ち上げ  食事会はスペイン料理のお店を予定しております

バルデエスパーニャ ペロバモス BAR de ESPANA Pero VAMOS
http://r.gnavi.co.jp/a466131/

スペイン料理のお店です。
スペインバルとは、スペイン流居酒屋。
数年前からスペインバルのお店が増えてきてますが、ここは先駆けです。

このお店の親会社はグラナダといって、ミシュランでスペイン料理2つ星を取った日本橋サンパウや、フランス料理3つ星を取ったサンテカンスも経営している会社です。

スペインの特徴あるお料理をあれこれ食べてみたいと思います。

予算は、飲み放題の5千円を考えています。

時間は、17時半か18時〜。




散歩だけ 飲み会だけの参加ありです。コミュニティやミクシィ以外の方の参加も可能です。お友達をお誘いして参加しても構いませんよ。お気軽にどうぞ

途中参加、途中退出ありですのでお気軽に参加して下さい。

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日暮里、谷中見どころ
太田道灌像 日暮里の高台は道灌山と呼ばれます。太田道灌が築いた出城があったそうで、それに因んで太田道灌像があります
サンマークシティ 日暮里駅前再開発でできた3棟の高層ビル。ステーションガーデンタワー(40階)ステーションポートタワー(25階)ステーションプラザタワー(36階  から成る
駄菓子屋横丁跡 最盛期には120軒もの駄菓子問屋がありましたが、需要の低下で駄菓子屋横丁の8軒ほどに減りました。駄菓子屋横丁は闇市のバラックからスタートした昔ながらの風情で、はとバスも訪れたり、人気があったのですが2004年に再開発によって潰され5軒が廃業してしまいました
ミニカーショップイケダ ミニカー専門店。200円から数十万円のレアものまで扱っています。敷居を高くしないためにも女性店員が対応するそうです
山田屋 三河島コリアタウンの焼肉の名店。支店を再開発ビルに出した
大屋商店 駄菓子屋横丁にあった駄菓子問屋の一つ。再開発ビルに移転
エドウィン 1947年に常見米八商店として中古ジーンズの輸入を始め、1961年に日本で初めてブルージーンズを生産した。日本におけるジーンズ販売の第一位の企業で、本社は東日暮里。2008年に国内最大の旗艦店エドウィンデニムギャラクシーを再開発ビルにオープンした
村山商店 駄菓子屋横丁にあった駄菓子問屋。
遠山 とお山の支店
又一順 本格中華のお店で肉まんや杏仁豆腐など持ち帰りで食べられるものも美味しい
馬賊 目の前で手打ちをしているラーメン屋。パンパンと麺を打つ音が店内に響く。坦々麺が評判
とお山 手打ちそばの美味しいお店。入手困難な日本酒や焼酎も40種類ぐらい置いている。再開発ビルにも支店をオープン
豊田屋 手頃な価格で魚が美味しい日暮里では有名な居酒屋。
酔の助 立川流の落語家さん達の行きつけの居酒屋。サニーホールでは毎月、立川流の日暮里寄席が開かれる
HABUTAE 羽二重団子の支店で、カフェ風
日暮里繊維問屋街 馬喰町、横山町が有名ですがそれに次ぐ規模として日暮里があり、繊維問屋街が形成されていて、服地・織物、服飾用小物、既製服などを扱う店が100店近く集まっている大正時代の初めに、浅草界隈で営業していた古布や裁ち落としを取り扱う業者が「地域一帯を市街化する」という行政指導によって、日暮里地区へ移動してきたのが始まりです。
リンゴ ドレスや各種衣装の専門店
ヘイワ堂 衣料品の格安店で40円から買える品物がある
ホテルラングウッド、サニーホール 区有地にて委託経営されているシティホテル。区のホールであるサニーホールを併設、サニーホールでは立川流の落語会が良く行われる
音無川 石神井川の水を東に分水した用水で、石神井用水、下郷用水と呼ばれた。JR線路に沿って田端、西日暮里と流れ、日暮里から荒川区と台東区との区境を形成し、三ノ輪橋から東へ流れ思川、 山谷堀となって隅田川に合流した。昭和8年に暗渠
谷中生姜 谷中生姜は東京の特産野菜として知られるが、作られていたのは主に低地の日暮里、谷中本村(東日暮里)だった
羽二重団子 文政二年、初代庄五郎が、音無川のほとり芋坂の現在地に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供しました。この団子が、きめ細かく羽二重のようだと賞され、それがそのまま菓名となって、いつしか商号も「羽二重団子」となりました。六代百八十年続いています。昔ながらの生醤油の焼き団子と、渋抜き漉し餡団子の二種類があります。文豪にも愛され夏目漱石、泉鏡花、田山花袋、正岡子規、久保田万太郎・・・・などの作品にも出てきます 。店内には田山花袋の書や、彰義隊が残していった槍や刀、江戸、明治に使われていた商売道具などが展示されています。店の前には正岡子規の句碑もあります
芋坂 谷中から善性寺門前に至る坂。夏目漱石、田山花袋、正岡子規の作品にも描かれる。鉄道施設により寸断され跨線橋で結ばれている
隼人稲荷 詳細不明。隣接して高浜虚子邸があった
善性寺 長享元(1487)年創建。日蓮が布教中に訪れていた関善左衛門に妻が難産だったので、杓子に曼荼羅を書いて与えたところ無事に出産した。日蓮に帰依した関は邸内に小堂を建てたのが始まり。江戸時代には6代将軍家宣の生母、長昌院が深く帰依したことから家宣の弟、浜田藩主松平清武の隠居所となり、松平家歴代の墓地となった。そのため、度々、将軍の御成りがあり、寺の前の橋は将軍橋と呼ばれた。昭和の名横綱双葉山、第55代総理大臣石橋湛山、名脇役で知られる歌舞伎役者中村又五郎、小野派一刀流四世中西忠兵衛の墓がある
御院殿橋 上野寛永寺門跡の隠居所、御院殿の前に架かっていた。昭和8年に暗渠。水鶏の名所であった。下流には水鶏橋、上流には将軍橋
御隠殿痕 上野寛永寺の門主は隠居所につかった300坪の屋敷があった。上野戦争で焼失
子規、虚子別れの辻 正岡子規は自分の後継者に高浜虚子を考えていた。明治28年12月、後継者になることを断った虚子は御隠殿の坂を下り、坂下の辻で二人は別れた
国際理容美容専門学校 理容師、美容師、エステティシャンを育成する専門学校
日暮里南公園 噴水や緑に囲まれた公園。以前は昔懐かしい紙芝居のおじさんが来ることで有名だった。噴水広場が建設省の小さな広場三十選で手作り郷土(ふるさと)賞に選ばれた
竹台高校 1935年 東京市立第四高等女学校(市立高女としては深川・忍岡・目黒に次いで4校目)として下谷区上野公園凌雲院内に設立 。片岡鶴太郎、林家正蔵、いっ平、有吉佐和子、大谷育江(ピカチュウの声優)が在学した。現在の上野公園の噴水辺りを竹の台と呼んだことに由来する校名
円能院 高野山真言宗、インド風の建物
サブロン 2002年ジャパンケーキショーでは準グランプリ、連合会長賞を受賞。パティシエの世界選手権の飴細工部門で優勝したこともある。飴細工ではテレビチャンピョンにも出演
第二日暮里小学校 夕焼けこやけの作詞者中村雨紅がこの小学校に勤務中に作詞をしたと言われる。自筆の夕焼け小やけの碑が建つ
ニューマルヤ 下町の昔ながらの洋食屋さん
東京ねじ会館 ボルトやネット、ねじなどを扱う企業の組合、東部ファスナー協同組合の事務所
シンデレラ 和牛ほほ肉赤ワイン煮が美味しい下町イタリアン
東京桐箪笥工業協同組合 東京の伝統工芸、東京桐箪笥の組合が川俣桐箪笥店内にあります。
壽美吉池地蔵 詳細不明
荒川八中跡 第八、第十、日暮里中学が合併し諏訪台中学となり廃校になりました。現在は諏訪台中学第二グランドです。春日三球(相方のクリトモ一球)、くまだまさしの母校
pop girl 衣料格安店のヘイワ堂系列の女性向けのお店
トマト 繊維問屋街小売りの草分け。本館、ノーション館、アーチ館、インテリア館、セレクト館などある
プルミエール 他のパン屋さんと同金額で1.5~2倍ぐらいのパンが売っている良心的価格のパン屋さん
今枝商店 昭和21年創業以来の建物。本業は氷屋で店頭販売もする。オレンジという衣料の小売り店もやっている
奥山 衣装やドレスの生地が豊富
レモン ヘイワ堂系列 子供服の激安店
斎藤湯 三代続く銭湯で、日本で唯一の三助さんがいます
江戸うさぎ 10円黒糖まんじゅうで人気。肉まんや谷中生姜せんべいなどもある
匠とあきんど 京都の街おこしをしているNPOが開いた戦国、幕末グッズのお店
絵理花 日本ハムファイターズの森本稀哲選手の実家である焼肉屋さん
喜楽園跡 明治34年に土地の小島喜八が田圃を埋め、菖蒲園を作った(堀切菖蒲園のようなもの)が小島氏一代で廃園になった。旧真土小学校改築工事では化石のようになった子亀がたくさん発掘された
吉村昭生家跡 戦艦大和、破獄などの歴史小説を書いた作家。日本芸術院賞はじめ毎日芸術賞、読売文学賞、太宰治賞、大佛次郎賞、菊池寛賞など数々の文学賞を受賞した。2005年79竿で死去。日暮里図書館には吉村昭コーナーがある
花嫁わた 明治14年創業。布団打ち直し、リフォームなど布団を扱う会社。もとは製綿工場で、吉村昭はここの八男として生まれた
前田酒店 東京で唯一、越乃寒梅の代理店。直接行って予約すると二ヶ月後手紙が来てそれを持って行くと越乃寒梅を原価で6本まで買えます。日本酒「日暮里」も売っています
諏訪台中 荒川八中、十中、日暮里中、道灌山中が合併してできた中学校。近くには片岡鶴太郎生家
正覚寺 元和2(1616)年創建。うすさま明王石像が荒川区登録文化財。文化14(1817)年銘。手水場(便所)の神様と言われ、全ての不浄、障害を除くと言われる
国際ジム ロイヤル小林、レパード玉熊、セレス小林など三人の世界チャンピョンを生み出したボクシングジム
某宗教団体洗脳拠点 統●教会の勧誘員が手相を餌に連れ込んだ人たちにビデオを見せたり、様々な手段で洗脳、勧誘する施設
西日暮里駅 昭和46年に開業した山手線で最も新しい駅。千代田線との乗り換えのために開業した
アルハムブラ 創業30年のスペイン料理の店。フラメンコのライブが見られる
開成学園 1871年神田淡路町に共立学校として創立。1924年に関東大震災によって道灌山に移転。麻布、武蔵と共に御三家と言われ、東大合格率日本一。初代校長は高橋是清。作家吉村昭も卒業生
道灌山遺跡 開成学園の第二グランドを中心に弥生時代の竪穴式住居が見つかった。平安時代の住居や江戸時代の溝なども見つかっている
佐竹屋敷と渡辺町 元禄16年(1703)年に水戸徳川家から秋田佐竹家に譲られて以来、佐竹家の抱屋敷となり、衆楽園という山荘があって、城北屈指の名園として文学サロンにもなった。明治に入ると笹や竹が生い茂り佐竹っ原と呼ばれ、大正4年に渡辺銀行頭取渡辺治右衛門が入手して近代田園都市を目指して開発されて昭和7年には日暮里渡辺町の町名がついた。芸術家や文人が移り住んだが、戦災で焼失した
第一号住居址、環濠 弥生時代の住居址と集落を取り囲んでいた環濠があった
ひぐらし坂 道灌山通りから田端駅方面を結ぶために開削された道。平成2年に日暮の里から名付けられた
向陵稲荷坂 開成中学と高校の間の坂で桜のトンネル。向陵稲荷に由来する
向陵稲荷 江戸時代初期より佐竹屋敷内に祀られていたが、渡辺町が開発されるとひぐらし公園(現開成中学校庭、日暮里渡辺町の中心)に移され、渡辺町の鎮守としてまつられた
胞衣神社跡 胞衣を祀るために明治23年に日本胞衣会社によって建てられた神社。ここにあった茶屋で正岡子規は高浜虚子に後継者になることを断られた。大正時代に入ると神社はなくなり鉄道官舎となった
道灌山坂 2006年に地元の要望で命名。道灌山にあることに由来。近くの道灌山幼稚園の園長で多くの著作がある高橋系吾さんが坂の銘板の字を書いたようです
青雲寺 宝暦年間(1751〜1764)に下総佐倉藩主堀田相模守正亮の中興と伝わる。四季おりおりの花が楽しめるとして近在の修性院、妙隆寺と共に花見寺と呼ばれた。谷中七福神の恵比寿が祀られている。江戸時代の滝沢馬琴の筆塚、硯塚、船繋の松の碑や文人の碑が残されている
延命地蔵尊 370年前から伝わるお地蔵さんで長野県南佐久郡の法城院にあったが、昭和8年にこの地に移されて以来厚く信仰されている
よみせ通り 駒込染井が源流で不忍池まで流れる藍染川(谷田川)が大正9年に暗渠となると、現在のよみせ通りになり、露店がたくさん並んだので夜店通りと呼ばれた。東京中に知られるほど賑わったが、戦後は露店が禁止され商店街忍になり、よみせ通りの名前が残った
すずらん通り よみせ通りから不忍通りに至る横丁の飲み屋街
坂下平和地蔵 昭和20年、アメリカ軍の空爆で谷中、千駄木では500人以上の死者が出たと言われます。この場所には鹿島湯という銭湯があり、石灰貯蔵庫を防空壕代わりにしていた赤ちゃんを含む23人が犠牲になりました。昭和34年にこの方々の冥福と平和を祈って建立された
コシヅカハム 昭和24年創業。手作りのハムやソーセージを自社製造している
ヤマネ肉店 名物の千駄木コロッケは一個70円。コロッケパンも美味しい
世界湯 谷中にある銭湯で、近くに住んでいた昭和の大名人と呼ばれた古今亭志ん生(しんしょう)も通っていたという
南泉寺 元和2(1616)年に徳川家から土地を拝領して大愚が創建した。本尊は木造聖観音立像。美濃遠山家の念持仏で鎌倉時代の作。その他、銅造菩薩立像、講談師松林伯円の墓が荒川区の文化財に指定されている
法光寺 慶安3(1650)年に赤坂で開基した。四谷に移転した後に現在地に移転した。陸軍少年飛行兵の慰霊碑がある
修性院 天正元(1573)年豊島郡浅草田中村に創建。寛文3(1663)年に現在地に移転した。谷中七福神の布袋を祀り「ひぐらしの布袋」と呼ばれた。青雲寺や妙隆寺と共に花見寺と呼ばれる
妙隆寺跡 元禄7(1694)年に谷中から当地に移転。桜やつつじを植えて庭園化し、青雲寺や修性院と共に花見寺と呼ばれたが経営難から明治時代に廃寺。修性院に合併。東京女子体操音楽学校(後の東京女子体育大学)や映画の撮影所になったり、マンションになった
富士見坂 妙隆寺坂とも花見坂とも呼ばれた。富士山が見えるので富士見坂。東京では数少ない本当に富士山が見える富士見坂である
太平洋美術会研究所 1901年設立の日本最古の美術団体。中村不折、朝倉文夫、長沼智恵子が参加している
高村光太郎の碑 詩人で彫刻家の高村光太郎の母校である第一日暮里小学校には、開校100周年を記念して飯田雅光氏の彫刻フクロウ像像の下にある「正直親切」の碑は、この学校の生徒のために高村光太郎が贈ったもの
西日暮里公園 道灌山にあります。新堀の土豪、関道閑が屋敷を構えたからとか、太田道灌の出城があったから道灌山と呼ばれたと伝わります。古代の遺跡もあり、江戸時代は薬草の種類が豊富で、薬草を採取する人や、景勝地で筑波や日光の連山が眺望でき、虫聞きをする名所でもありました。有名な絵師にも描かれ、明治時代には正岡子規にも愛されました
間の坂 名前の由来は不詳。西日暮里駅から諏方台に上がる坂
諏方神社 日暮里、谷中村の総鎮守。元久2(1205)年に豊島経泰が建立した。太田道灌や徳川将軍家からも大事に扱われた。8月に例大祭があり3年に一度本祭り。荒川区有形文化財に指定されている手水鉢(ちょうずばち)や、日本画の大家・横山大観の筆による拝殿額、かまどの神様「荒神さま」、2基の庚申塔などもあり、眺望もよく下町一帯が見渡せます
地蔵坂 浄光寺に江戸六地蔵の一つがあることから付けられた。坂の下部はトンネルになってJRの線路をくぐっている
浄光寺 諏方神社の別当寺。元禄4(1691)年空無上人の勧請により江戸東部六地蔵の一つ銅造地蔵菩薩が開眼された、元文2(1737)年8代将軍吉宗が鷹狩りで御成りになり、以後、将軍御膳所となった。境内に将軍腰掛け石がある。文化6(1809)年に再建した地蔵菩薩立像もあり、眺望が良く雪景色が素晴らしいということから雪見寺とも呼ばれた
日暮小跡 明治13年に天王寺門前瑞輪寺境内にあった寺小屋がこの地に移転。明治18年に公立日暮小学校となった。大正2年に第一日暮里尋常小学校となり、昭和11年に現在の第一日暮里小学校の場所に移転した
シャレースイスミニ スイス風ログハウスでスイス料理が食べられるお店。語学教室やカルチャースクールも行っている
養福寺 湯島円満寺の木食義高(享保3年没)によって中興されました。江戸時代、多くの文人たちが足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる「談林派歴代の句碑(区指定文化財)」や、江戸時代の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた「柏木如亭の碑」、畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られている。赤くそびえる仁王門は、宝永年間(1704〜11)の建立と伝え、門の裏側には広目天と多聞天の二天王像が安置されています。
啓運寺 正保元年(1644)、上野山下(御徒町)に創立しました。明治維新の上野戦争時に焼失、明治18年に当地へ移転しました。毘沙門天は多聞天ともいい、四方を守護する四天王の一つである。毘沙門天は、台座の裏に「寛政九年(1797)八月吉辰、仏師以東光雲」の墨書銘がある。そのほか、境内には、延宝八年(1680)銘の庚申塔がある。この塔には、「三守庚申三戸伏、妙法、七守庚申三戸滅」の銘文のほか三十六名の施主名が刻まれており、区内唯一の日蓮宗系の庚申塔である
経王寺 明暦元年(1655)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。
延命院 開基は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局。家綱出生の際に安産を祈祷した慧照院日長が、三沢局の信施を受け、甲州身延山の七面大明神を勧請。慶安元年(1648)別当寺として延命院を開創したという。七面大明神には、胎内に慶安3年(1650)法寿院日命が願主となり、仏師矢兵衛の手で作られたことを記した銘文がある。秘仏とされ、七面堂に祀られている。これにちなんで、門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂は七面坂と呼ばれる。境内には樹齢600年を超えるといわれる大椎(都指定天然記念物)がある。延命院のシイは、天保7年(1836)開板の「江戸名所図会」巻五の「日暮里惣図」に、現在地と思われる位置に本樹の全容が描かれていて、当時から地域の人々に親しまれた老樹であることが伺われる。
かつては幹周り5.5メートル(平成9年調べ)の巨樹だったが、平成14年(2002)5月に幹内部の腐朽が原因で南側の大枝が崩落し、安全のため現在の樹形に保っている
ダージリン アンティークは家具などあって落ち着いた雰囲気のインド人が作るインド料理のお店
夕やけだんだん 谷中銀座に降りる高低差4mの階段。遺跡があった所に開かれた。夕焼けの名所で下町らしい所から、谷根千の編集者で作家の森まゆみが命名した。猫が多いことでも知られる
ザクロ ハイテンションな店長で知られるトルコ、イラン料理のお店。ベリーダンスや水タバコも体験できる
焼肉サラリーマン 印象的なネーミング。近在の落語家も利用する
延命院貝塚 明治21年東京帝室博物館の関保之助によって発見された縄文時代の貝塚。延命院の西側の崖だったので名付けられた。出土品は荒川区の文化財
谷中銀座 戦後すぐに自然発生的に形成され、下町的な風情が人気を集めた。昭和56年(1981)には東京都の「モデル商店街第一号」として指定された。NHK連続テレビ小説「ひまわり」の舞台
翠屋 100年3代に渡る「花籠(はなかご)」のお店です。花籠とは、お花を摘み入れる竹かごのこと。二代目から荒川区の無形文化財に指定されています。三代目は日本伝統工芸展・伝統工芸新作展に昭和61(1986)年より毎年出品し、NHK会長賞や奨励賞を受賞し、その出品作品は、官公庁や美術館などに収蔵されています 竹は日本産のものを使用します。寒暖・乾湿の差によって鍛えられ、弾力に富み、質が良いのだとか。発明王・エジソンが作った白熱電球のフィラメントも日本の竹だったそうです。また、昔の藁葺き屋根に使われて100年以上燻された「煤竹」を使うのが花籠の真髄なのですが、近年ではそれを入手するのが困難となってしまいました
本授寺 寛文5(1662)年に日音が開基。数度にわたる火災で仏像や書物を焼失した
六阿弥陀道 江戸六阿弥陀詣の四番田端の与楽寺から五番下谷の常楽院(上野広小路)に至る道であった
後藤の飴 大正11年創業3代続く飴屋さんで60種類以上のオリジナルの飴がある
多満留 寄席和風小物のお店。古今亭志ん生親子のグッズがそろっており、志ん生のCD全巻が取りそろえられている
すずき 3代続くお肉屋さんで、元気メンチカツに行列ができる。チャーシューも人気
濱松屋 明治24年創業の履物屋さん。下駄は自分で鼻緒も選べて足に合わせてもらえる
肉のサトー テレビでも良く紹介される谷中コロッケ、谷中メンチで行列のできる店
武蔵屋豆腐店 大正14年創業。おぼろ豆腐が人気
キッチンマロ レトロな雰囲気の洋食屋さん
マミーズ 子供に安全なお菓子を食べさせたいという思いで始められたお店。アップルパイが人気でデパートの催事にも出店する
アネックス勝太郎旅館 宿泊料金が手頃な旅館で外国人観光客の利用が多い
春木屋 昭和2年創業の中華屋さん。昔ながらの味で、ラーメンもメニューには支那そばと書かれている
winning ボクシンググローブのメーカー。格闘技のグローブを中心に製造販売している
旭プロセス製版 三角屋根が連なる姿が昔の工場の風景を残す
谷中福丸饅頭 一個10円の饅頭で種類豊富。多い時は一日2万個売れるという
三四真地蔵 戦災で70名を亡くし、その供養のために昭和23年に建立された。三崎町、初音町四丁目、真島町の三町の地名から一字取って命名された
東京成田山別院 近辺の大地主だった家が行っている成田山を信仰する講
指人形笑吉 露木光明さんが創作した指人形パフォーマンスで水〜日、祝日開館。大人3名以上一人500円でパフォーマンスが見られます。 テレビで紹介され注文が殺到したために指人形の製作は数年先までできないそうです
へび道 暗渠となった藍染川は琵琶橋(合染橋)を越えると昔の流路そのままにクネクネと蛇行し、それがそのまま道になっているのでへび道と呼ばれます
菊見せんべい 明治8年創業のお煎餅屋さん。四角いお煎餅が特徴。明治時代に菊人形の小屋が立ち並んでいたことが店名の由来
逢初稲荷 >土地の前の持主から、このお稲荷さんを大事にしてくれるなら譲るといわれて土地を買ったんです。元禄十五年と書いてあるでしょ。川から上ったものらしいですよ。で、うちは大切にお守りして、今でも、毎年初午(2月12日)には皆さんお参りにみえるし、私どもではお赤飯を配るんですよ。入口の石は参道入口のお燈明なの。(内野せきさん)  現在は駐車場
乃池 江戸前のアナゴにこだわる各界の著名人が訪れる穴子鮨の名店
朝日湯 創業90年以上の銭湯。20年前に改築して今はサウナ付。コーヒー湯やミルク湯などを日替わりで楽しめる
福喜稲荷大明神 通路が狭いことでメディアに良く取り上げられるお稲荷さん
菊壽堂いせ辰 元治元(1864)年創業の千代紙、紙工芸品の老舗。もともとは日本橋にあったが、昭和19年に谷中に移転。5代続く
乱歩 マスターは江戸川乱歩の熱烈なファン。猫好きと乱歩ファンが訪ねてくる。店内は小説の舞台にもなったという
大圓寺 開山年不明。上野清水門わきから谷中に移転した。享和3(1803)年に小石川から笠森稲荷が遷座してきた。大正に入ってから笠森稲荷と縁が深い笠森お仙の二つの碑が建てられた。江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘。明和年間(1764年-1772年)、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤(やなぎや おふじ)と人気を二分し、また二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし(つたや およし)も含めて江戸の三美人(明和三美人)の一人としてもてはやされた。1768年(明和5年)ごろ、市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなり、その美しさから江戸中の評判となり一世を風靡した。晴信は当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたという。1770年(明和7年)2月ごろ、人気絶頂だったお仙は突然鍵屋から姿を消した。お仙目当てに訪れても店には老齢の父親がいるだけだったため、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行した。お仙が消えた理由についてさまざまな憶測が流れたが、実際は、幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁ぎ、9人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたという。享年77。大正8年、二つの碑が建てられた。「笠森阿仙の碑」は小説家永井荷風の撰、「錦絵開祖鈴木晴信」碑は、文学博士笹川臨風が撰し、題字は、東京美術学校(現東京芸術大学日受ル学部)校長正木直彦の手になる。六阿弥陀道には煉瓦塀も残っている
谷中小 正門は入母屋式で瓦屋根という古風な作りになっている。正門に続く壁は黒字に白の格子の入ったナマコ造りである。さらに通りに面して大名時計のモニュメントまである。同校は明治35年(1902)の創立で、この校舎は平成3年に完成した。
三崎坂 田端、駒込、谷中の三つの高台に因むとか、付近の地名による坂の名前という。江戸時代に首を振る僧が居たので首振り坂とも呼ばれた
妙円寺 日蓮宗の妙円寺は、円住山と号し、もと本所法恩寺末です。慶長4年(1599)に開山、元禄17年(1704)当地へ移転しました。
妙法寺 日蓮宗の妙法寺は、龍江山と号し、慶長13年霊鷲院日恕が神田に創建、谷中茶屋町への移転を経て当地へ移りました。江戸期は、法華経寺末の触頭でした。江戸初期の刀剣の目利きを家業とし、「寛永の三筆」とか言われ、作庭、陶芸も行ったマルチアーティストの本阿弥光悦と一族の墓がある
正運寺跡 元禄年間に当地に移転し大正時代に廃寺になった正運寺跡から幕臣で儒官だった井戸氏や庶民の墓や埋葬品が出土した谷中三崎町遺跡がある。出土品は台東区の考古資料の有形文化財に指定されている
天竜院 蘭学者の伊東玄朴の墓(都旧跡)がある。肥前国の農民出身の玄朴は、長崎でシーボルトに西洋医学を学び、嘉永2年(1849)、日本最初の種痘所を開設した。これが現在の東京大学医学部の前身となっている。蘭学者として始めて、将軍の侍医を務めたのも玄朴である
本通寺 元和元(1615)年日用が大久保玄蕃頭の帰依を受けて王林寺寺有地に創建。後に現在地に移転した。谷中七福神の毘沙門天を置いて多くの参拝者を集め出店も出るほどだった。彰義隊の拠点となったため山門以外を焼失。現在の本堂はその跡に建てられた仮本堂で、毘沙門堂も大正時代に再建された
竜谷寺 境内に百日咳守護」とか「たんぼとけ」と書かれたお堂があり喘息にご利益があるお寺
明王院 新義真言宗の明王院は、天瑞山歓福寺明王院と号し、慶長16年(1611)2月神田北寺町に開山、慶安元年(1648)当地へ移転しました。もと本所弥勒寺末、御府内八十八ヶ所霊場57番札所です。•木造阿弥陀如来立像と室町時代製作の絹本着色孔雀明王画像が台東区の文化財に指定されています
全生庵 山岡鉄舟居士が徳川幕末明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔う為に、明治16年に建立した。全生庵を寺号とし、居士邸からかつて江戸城の守本尊であった葵正観世音の霊像を遷して本尊とした。この像はもともと日向国にあった大慈寺という寺院にあったもので、のちに京都の東福寺塔頭長慶寺に移され、さらに豊臣家に嫁いだ徳川家康の孫千姫によって江戸城に迎えられました。千姫が亡くなるとこの像は姫の侍女が開いた大塚の大慈寺に姫の遺品とともに安置され「葵観音」の名で知られました。しかし明治維新になってまもなく大慈寺は廃寺となったため、山岡鉄舟がこの「葵観音」を自邸にひきとり、のちに全生庵の本堂に迎えたということです。この像は平安時代後期の作臨済宗国泰寺派で、開山は越そう和尚、開基は山岡鉄舟居士である。又、居士との因縁で落語家の三遊亭円朝、国士の荒尾精、山田良政、岡田満、石油開発者の石坂周造、長谷川尚一、画家の松本楓湖、教育家の棚橋絢子の墓所がある。初代三遊亭 圓朝は、三遊派の総帥、宗家。三遊派のみならず落語中興の祖として有名。現代の日本語の祖でもある。本項目で詳述。近代日本語の特徴の一つである言文一致体を一代で完成させたからである。当時、速記法が日本に導入された。圓朝は自作の落語演目を速記にて記録し公開することを許した。記録された文章は新聞で連載され人気を博した。これが作家二葉亭四迷に影響を与え、1887年「浮雲」を口語体(言文一致体)で書き、明治以降の日本語の文体を決定づけたのである。のみならず現代中国語の文体も決定づけた。魯迅は日本留学中に言文一致体に触れ、自らの小説も(中国語の)言文一致体で綴った。すなわち白話運動であり、ここで中国語は漢文と切り離されて口語で記されるという大改革がなされたのである。円朝遺愛の幽霊画50幅、明治、大正名筆の観音画100幅が所蔵されていて8月の谷中圓朝まつりで1ヶ月間公開される。また命日には落語協会主催の圓朝祭りが行われる。作曲家の弘田 龍太郎は宮城道雄や本居長世らの新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索した。1918年(大正7年)鈴木三重吉によって児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると、やがて「赤い鳥運動」に参加、北原白秋等と組み、多くの童謡を作曲した。代表作に鯉のぼり、春よこいがある。開基山岡鉄舟は剣、禅、書の達人としても知られる。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会。このとき、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという[1]。 西郷との談判において江戸開城の基本条件について合意を取り付けることに成功。その行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。清廉剛直な人物であった
福相寺 創立年間不詳ながら、寛文2年(1662)年に開祖日信が入寂していることから1600年代の創建と推定されます。日蓮宗の福相寺は、松栄山と号し、安房国長狭郡小湊誕生寺末として創建しました。三遊亭志ん朝(志ん生の実子、池波志乃の叔父)が芸の精進のために願かけをしていた虚空蔵菩薩がある
長久寺 日蓮宗の長久寺は、延寿山と号し、延寿院日年聖人(寛永9年:1632年遷化)が開山しました。
かえる屋ケロリン堂 かえるのキャラクターグッズ、オリジナル雑貨を販売するお店
立善寺 しょうぶ寺の異名を持つ日蓮宗のお寺。天和3(1683)年銘の木造閻魔王坐像が台東区の有形文化財に指定されている
防災広場初音の森 セブンラックススポーツプラザの跡に造成された災害時に避難場所となる広場。旧町名の谷中初音町に由来する。被爆柿の木二世も移植されている
蛍坂 坂下が蛍沢と呼ばれた蛍の名所だったことに因む。三年坂、中坂とも言う
岡倉天心記念公園 東京美術学校(現在の東京芸術大学)の初代校長で、古美術の保護、東洋美術の紹介をするなどした日本美術の先覚者岡倉天心の旧居があった。日本美術院は明治31(1898)年岡倉天心が中心になって結成した美術研究団体でここが発祥の地。現在は日本画の美術団体として活動を継続している。園内の六角堂に岡倉天心像がある
宗林寺 日蓮宗の妙祐山宗林寺は、江戸十祖師の一つ舟守祖師として信仰を集めています。江戸時代には、本所法恩寺、浅草幸龍寺とともに京本国寺末触頭を勤めていました。付近は蛍の名所で蛍沢と呼ばれた。また萩の名所で萩寺とも呼ばれた。見廻組を率い清川八郎を斬殺し、坂本亮、あ暗殺にも関与した佐々木只三郎の墓碑がある
長明寺 江戸時代創建の日蓮宗の寺院。徳川家康の家臣「志村七兵衛」なるものが、関が原の合戦で戦死した配下の霊を弔うために建立したんだとか書院・本堂・玄関の鬼瓦らしい。人力車発明記念碑。墓地には、発明者、和泉要助の墓がある。天和二年製の銅鐘は区の文化財になっている。名工鋳物師の椎名伊予良寛の作。徳川綱吉の世に、デフレ対策として貨幣改鋳を進めた勘定奉行荻原重秀の墓がある
七面坂 坂上の延命院にある七面堂に由来する坂名、坂の途中に質屋おぢさんがある
中野屋 大正12年創業の佃煮屋。珍しいウナギの大和煮は中尾彬の好物だということ
谷中せんべい信泉堂 大正初期の創業以来、昔ながらの製法で一枚一枚手で焼き上げ、時間をおいて2度焼きされる。お煎餅は1枚65円〜で、一番人気の「堅丸(かたまる)」は、第20回全国菓子大博覧会で大臣賞を受賞しています。
サンゴダールマルジュー メロンパンなど昔ながらの製法でつくられたパンが人気
花家 戦後創業した大衆食堂。先代が白金台で花屋をしていたのが店名の由来。愛川欣也お勧めのジャンボ餃子がある。あんみつやみつまめまどの甘味も美味しいという
川むら 初代は明治時代に数寄屋橋で修業し、白金で創業し現在地に移転して100年以上という老舗。お蕎麦も美味しいが、お酒やつまみも充実している。蕎麦屋で飲む名店
本行寺 本行寺は、大永6年(1526)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永6年(1709)、現在地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。二十世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れた。境内には多くの句碑がある。儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。戦国時代に太田道灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延3年(1750)建碑の道灌丘碑のみ残る。本行寺は大永5年(1525)に太田資高を開基として創立され、以来太田氏の菩提寺となっていました。江戸時代には遠州掛川藩5万石を拝領した太田家とその一族の墓所となりました。天正11年(1583)7月29日に、羽柴秀吉から太田三楽斎資正に宛てた書状をはじめとして、明治期の三点を含む計九点の書状類が本行寺に残されています。また、それに加えて、寛政3年(1791)10月作成の「太田家霊簿」一冊があります
御殿坂  坂下に御隠殿があったことに由来する
ショコラティエイナムラショウゾウ 有名なパティスリー、イナムラショウゾウのショコラのお店
幸田露伴旧居跡 幸田露伴が明治24〜26年に住み、代表作五重塔を書いた。近くには北原白秋が三度目の妻菊子と住んでいた
了俒寺 寛永元年(1624)、日安尼によって現在地に創建されました。当初日蓮宗の不受不施派に属しており、感応寺(現天王寺)九ヵ院の中でも唯一寺号を有する寺院でしたが、元禄11年(1698)不受不施の禁令により、時の住職であった妙用比丘尼は入牢を命じられたのち配流、翌年感応寺(現天王寺)とともに天台宗に改められました、本尊の木造阿弥陀如来立像は台東区の有形文化財
谷中霊園 もとは天王寺の寺域であったが、明治7年明治新政府が没収し、東京府管轄の公共墓地、谷中墓地とした。明治22年には東京市に移管。昭和32年に都市計画公園とされて、昭和35年から墓地の貸し付けを行っていなかったが、平成19年から再開。園内の公園整備も進められている。桜の名所で、中央の通りはかつての天王寺参道。天王寺墓地と寛永寺墓地が入り組み複雑な形となっている
中村正直 明治時代の教育家、女子高等師範学校(現お茶の水女子大))校長就任、慶応義塾や攻玉社と並ぶ四大私塾と呼ばれた同人社を設立した。西国立志編や自由之理などのベストセラーを書いた啓蒙思想家でもある
佐藤尚中 幕末から明治の蘭方尾医で、佐藤泰然に入門し、養子となって順天堂病院を創設した
長谷川一夫 抜群の美貌で日本を代表する映画スターとなる。、「若い女性の好きなもの」として「あんミつ」の「ミー」と併せ、長谷川の「ハー」で「ミーハー」と言う言葉が生まれたとも言われる。テレビ界でも人気を博し。1984年に76歳で亡くなると、植村直己と共に国民栄誉賞を贈られた
花柳寿輔 幕末〜明治の劇界に君臨した振付師で、日本舞踏花柳流の創始者。60年で1500の作品を振りつけたという
福地桜痴 明治時代のジャーナリストで多くの著作を残し、福沢諭吉と共に天下の双福と呼ばれた。歌舞伎座の創設にも名を連ねた
川上音次郎 明治時代の俳優。自由民権運動に携わり、世情を風刺したオッペケペー節が大流行し、新派劇の俳優となった。妻は当時の人気芸者の貞奴で、その生涯はNHKの大河ドラマで取り上げられた
高橋お伝 様々に脚色され日本三大毒婦と言われ、病床の亭主を毒殺し、強盗を重ね殺人を犯したと伝えられるが、実際のところはハンセン病で村八分となった夫の医療費を稼ぐために娼婦に身を落とすが、介護の甲斐なく亭主は病死。その後、小川市太郎というヤクザまがいのものと恋仲になり、商売を始めるがうまくいかず借金がかさみ、古物商後藤吉蔵に借金を申し込む。吉蔵は一晩を共にすると約束を反故にしたため、憤ったお伝が吉蔵を殺害して現金を奪った。強盗殺人とした逮捕されたお伝は市ヶ谷監獄にて死刑執行。8代目山田浅右衛門の弟吉亮により、日本における女性死刑囚最後の斬首刑に処された。伝の遺体は警視庁第五病院で解剖されて、その一部(性器)は現在東大法医学部の参考室に保存されている。伝の墓に参ると三味線が上達するという評判があり、三味線を習う者の墓参が伝逝去後の現在もかなりあるといわれる
ニコライ 日本でのロシア正教布教に生涯をささげた日本正教会の創建者。聖人に列し信者の崇敬の対象となっている。ニコライ堂のニコライでも知られる。
小花作助 小笠原諸島の歴史を語る上で欠かせない人物。幕府の役人として、小笠原諸島に渡り、明治政府にも出仕し、出張所長として小笠原諸島開発に従事した
菊地容斎 江戸末期〜明治の画家で、歴史画の先駆者と言われる
中島歌子 明治時代の歌人。小石川で歌塾萩の舎を経営。門下に樋口一葉が居る
外山正一(とやままさかず)明治時代の教育者、社会学者 幕臣で16歳で開成所(後の東京大学)の教授方になるなど若くして英才をうたわれる。中村正直と共にイギリスに留学。語学力を認められて新政府のもとでもアメリカに留学。日本に帰る東京大学で日本人初の教授となった。日本に社会学を紹介し、日本の社会学の草分けぬなった。神田に正則予備校(今の正則高校を創設)伊藤博文内閣で文部大臣も務めた。日本で最初の軍歌として爆発的にヒットした。この曲は「扶桑歌」「陸軍分列行進曲」とも呼ばれる行進曲として編曲され、旧陸軍から現在の自衛隊にまで受け継がれている名曲である。東大文科大学学長のときの1883年(明治16年)、ある新入生の面接を行った。外山が「君は何の為に勉強するのかね。」と問うと、件の新入生は「我、太平洋の架け橋とならん。」と答えた。この新入生が新渡戸稲造である。英語、英文学教育の充実を考えた外山は、ギリシャ系アイルランド人、ラフカデイオ・ハーンに強く働きかけ東京帝国大学英文学講師に招聘した。ハーンはのちの小泉八雲である。
大原重徳(おおはらしげとみ)孝明天皇に重用された公家で、国事に奔走。明治維新後は政府の重職を歴任した
重野 安繹(すげのやすつぐ)江戸末期〜明治の家、漢学者。薩摩藩で薩英戦争の戦後処理を行う。維新後は大日本編年史の編纂などに参加。日本で初めて実証主義を提案した。日本で最初の文学博士
箕作秋坪(みつくりしゅうへい)幕末に活躍した蘭学者箕作阮甫の養子。福沢諭吉の慶応義塾と双璧と言われた洋学塾、三叉学舎を開設し、ここで明治を担う多くの人物が学んだ。洋学の大家でもあり漢学の大家でもあった
菊地大麓(きくちだいろく)箕作秋坪の二男で、父の生家の菊地家の養嗣子となる。ケンブリッジ大学を首席で卒業し、東京帝国大学理学部教授となり日本に近代数学をもたらした。東京帝大、京都帝大学長、学習院総長など歴任し、福沢諭吉の交詢社にも参加。文部大臣など政治家としても活躍した
石原純(いしはらあつし)理論物理学者、科学啓蒙家。アインシュタインに学び、アインシュタインが来日をした時は通訳を務めた。伊藤左千夫のアララギ発行に参加し、岩波書店の雑誌科学の初代編集主任を務めた
大給松平家墓所 徳川家の庶流、。十八松平の一つ。大給松平家からは譜代大名4家、旗本を輩出した。そのうちの一つ岩村藩3万石となった。歴代、奏者番(武家の礼式を管理する)寺社奉行などを要職を歴任した
宮城道雄 筝曲家(そうきょくか)作曲家として知られる。11歳で免許皆伝となり、古典楽器の改良や、新楽器の開発をおこない十七弦などを発明。自ら作曲した春の海は世界的評価を受けた。神楽坂にある記念館は日本で初めて音楽家として建てられた記念館
岸本辰雄 司法省法学校第一期生でパリ大学に法律を学ぶ。日本に帰国後は明治大学の前身、明治法律学校を立ち上げ初代校長
徳川慶喜 徳川斉昭の七男。子供の頃から英邁で知られる。一ツ橋家の養子となる。その後徳川幕府最後の将軍となり、大政奉還をして駿府で隠居生活を送った。維新後は趣味三昧の生活をして当時珍しかった自転車を乗り回し、写真撮影を日常とした(曾孫はプロカメラマン)自動車の運転も行った。朝敵であることを赦免し、華族の最高位である公爵を与えた明治天皇に感謝し、葬儀は仏式ではなく、神式で行ったので徳川家菩提寺には入らず谷中墓地に皇族のような円墳で建てられた。77歳で亡くなり徳川将軍家で最も長命であった(次は家康の75歳)
本居豊穎(とよかい)本居長世 本居豊穎は国学者として有名な本居宣長の曾孫で、国学者として東京帝大、東京女子高等師範学校、國學院で講師を務め、大正天皇の皇太子時代に国学を教えた。和歌の歌集や著書を残す。長世は 豊穎の孫で後継者。祖父の期待に反して音楽家を目指す。東京音楽学校を首席で卒業。同期に山田耕作、教え子に弘田龍太郎、中山晋平がおり、宮城道雄らと共に洋学と邦楽の融合を目指す新日本音楽運動に携わった。野口雨情と組んで次々と童謡の作曲を行った。代表作に七つの子、赤い靴、汽車ポッポなどがあり、十五夜お月さんは長女みどりのたらで有名になり、みどりは童謡歌手第一号となり、童謡レコード吹き込みの第一号となった
津田真道(つだまみち)幕末にオランダで法学を学び、講義録を訳出したものが日本初の西洋法学紹介となる。司法省、外務省の官僚として活躍。法学博士、福沢諭吉らと共に明六社(後の日本学士院)の設立をした
馬場辰猪(たつい)、胡蝶  辰猪は朝野新聞や自由新聞などで自由民権運動を日本に広めた自由民権家。福沢諭吉の交詢社立ち上げの一員となる。胡蝶は弟で、英文学者、翻訳家で島崎藤村や北村透谷らと共に雑誌文学会などを立ち上げた。樋口一葉の理解者でもあった。外国文学に精通し様々な人に影響を与えた
渋沢栄一 武蔵国血洗島の大農家に生まれ、商才に長け、江戸に出て一橋慶喜の家臣となる。明治維新後は大蔵官僚となり、退官後は第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立するなど、多くの銀行の設立に携わった。また実業家として東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長も務め、当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、商業教育にも力を入れ商法講習所(現一橋大学)・大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、早稲田大学・二松学舎(現二松学舎大学)・学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)への寄付金の取り纏めに関わった。また、商人同様に教育は不要であるとされていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。
御隠殿坂 上野の山より御隠殿に向かう通路にあったので名付けられた。JRの線路によって遮断されている
芋坂 山芋が取れたのでついた坂名だという。伊藤晴雨が描いた根岸八景、芋坂の晩鐘には当時ののどかな様子が描かれ、正岡子規や田山花袋の作品にも描かれている。明治15年の鉄道開通で削られてしまった
鏑木清方 明治〜昭和に活躍した日本画家。近代日本の美人画家として知られる。三遊亭圓朝像は重要文化財に指定されている、」晩年を過ごした鎌倉には鎌倉鏑木清方記念美術館が建てられている
常の花 出羽海部屋所属の第31代横綱常の花。引退後、出羽の海の名跡を継承。第二代相撲協会理事長。戦後は蔵前国技館建設など相撲の復興に尽力した
田中芳男 幕末〜明治に活躍した博物学者、農学者、園芸学者。明治時代に動物園、植物園を構想し、上野公園を設計し、博物館という言葉を生み出した。殖産興業の指導、基礎博物学の啓蒙につとめパリで行われた第四回万国博覧会、ウィーン万国博覧会では責任者として派遣され、元老院議員、貴族院議員など歴任した
広津柳浪、和朗(ひろつりゅうろう、かずお) 柳浪は江戸〜明治の小説家。今戸心中、黒蜥蜴など低階級社会の暗部を描いた深刻小説、悲惨小説で有名。永井荷風の師匠。子の和郎も小説家、翻訳家。松川事件の被告の支援でも知られる。娘の桃子も作家となり三代続く作家となった
鷲津毅堂 幕末〜明治の儒学者、漢詩人。尾張藩から明治政府に出仕し、文部省や司法省の役人として国づくりに携わった。永井荷風の外祖父
浅田宗伯
伊達宗城
酒井家墓地
横山大観
鳩山一郎
五重塔跡
松田秀雄
小平浪平
加波山事件
安立院
擇木寮
天王寺
紅葉坂
朝倉文夫
牧野富太郎
出羽の海
佐藤泰然
下御院殿橋(トレインミュージアム) 駅の東西を結ぶ橋で、橋の下には京成線、常磐線、東北、上越、山形、秋田新幹線、山手線、京浜東北線、高崎、宇都宮線などの様々な電車が見ることができて、バルコニーなど設置されトレインミュージアムと呼ばれる

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コメント
親しくなったら行きませんか(^_^)/~
飲み友探してまーす☆気軽に楽しく一緒に飲みに行きませんか?(*^_^*)そんなに強くはないけどね(*μ_μ) イイお店とか知ってたら案内してほしいです★時間は夜遅くでも空いてますよヽ(^o^)丿飲み友探しなんで二十歳以上の人限定ー(*・人・*) 年は23歳だよ!メールよろしくでーす! red-rose.ray@docomo.ne.jp
2010-01-22 金 21:07:54 | URL | さよ [編集]
街歩きは楽しいですね。
川歩きも同様です。
2010-01-24 日 22:45:17 | URL | 青道 [編集]
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ハンセン病 解剖台 日本ハンセン病学会
巷でうわさの・・・アレです!これ、ご存じですか?【はくだけダイエット】巻くだけダイエットは、効きましたね♪次回オフの見どころ 日暮里、谷中見どころ 妻は当時の人気芸者の貞奴で、その生涯はNHKの大河ドラマで取り上げられた高橋お伝 様々に脚色され日本三大毒 2010-07-20 Tue 20:44:52 | 潜在意識

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