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クバ

Author:クバ
次回オフは


11月21日(土) 自由が丘スイーツ散策

ryotaくんが自由が丘を案内してくれます。

自由が丘名所、スイーツのお店などなど

自由が丘デパート→モンブラン→ひかり街→Atsuko Matano Gallery→Ribbon→自由ヶ丘風月堂→ポパイカメラ→えんぎ屋→Luz自由ヶ丘(Celb de TOMATO自由ヶ丘テラス、SABON自由ヶ丘店)→cafe MAX→quatre saisons tokio→私の部屋→PG GAUZE→SIX→kitchen dogs→ke:miyu→サンクスネイチャーバス→サロンアンピエール→ねこカフェクラブ→people tree→Three dogs Bakery→チュベ・ド・ショコラ→自由ヶ丘学園→モンサンクレール→自由ヶ丘ロール屋→亀屋万年堂総本店→サロン・ド・キャフェ・クレチュール→JIYUGAOKA BURGER→豆豚食堂 朝日屋→スイーツフォレスト→CUOCA SHOP→九品仏川緑道→花きゃべつ→八沢川→UNIQLO(WOMEN'S ONLY SHOP)→momi&toy's→FRuVEGe→豚そば屋大大→ごっつい自由ヶ丘→銀座キャンドル→Family Pet Club→Eco cycle
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11月29日(日) 限定公開とトキワ荘と池袋モンパルナス

この日は15時より江戸文化部の分科会があるのですが、その前に午前中を中心に軽い散歩をしようかと思います

漫画家赤塚不二夫が仕事部屋として使っていた豊島区のアパートが期間限定で特別公開されます。10月25日〜12月6日の土日祝日だけの公開となっています。申し込みはハガキによる予約制なので先着30名のみのイベントです

30名を越えた場合はキャンセル待ちになります。人数の拡大ができるかどうか申し込み中です

このアパートの他にトキワ荘跡や池袋モンパルナスなど要町、長崎、南長崎などをショート散歩します。

集合 10時 東京メトロ有楽町線要町駅 14時ぐらいに解散予定

解散後に小石川に向かって江戸分科会に参加可能です

会費 500円

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11月29日 江戸文化部 紅葉の大名庭園で江戸を語る

東京再発見内でグループ活動を行い、その成果を活動に反映させていこうと考えております。

まず第一弾として江戸文化部のイベントになります


「紅葉の大名庭園で江戸を語る」
日:11月29日(日)
場所:小石川後楽園
日程(予定):庭園散策(午後3時から午後5時)
       江戸を語る会(午後5時から午後8時30分、涵徳亭にて)…たとえば江戸の街、江戸の老舗店、江戸の物語、江戸の風習などについて
参加用件:参加者は積極的に参加する事(特に知識は必要ありません)
定員:20名
その他:庭園散策のみの参加も可。その場合は、参加用件、定員ともになし
参加申し込み締め切り:11月25日朝(庭園散策のみの場合は11月28日朝)

参加費:200円以上
入園料:240円(20名以上の場合)300円(20名未満の場合)
会場費:300円程度(参加人数による)




散歩だけ 飲み会だけの参加ありです。コミュニティやミクシィ以外の方の参加も可能です。お友達をお誘いして参加しても構いませんよ。お気軽にどうぞ

途中参加、途中退出ありですのでお気軽に参加して下さい。

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下北沢〜駒場散歩見どころ
下北沢は北沢川やその支流が形成した地形にあります。下北沢村の中心は北沢八幡宮や森巌寺のある辺りにありましたが、昭和初期に小田急線と京王井の頭線が交差する交通の要衝となると駅を中心として栄えるようになってきます。関東大震災後に人口が増えていき、将校クラスの軍人や高級官僚が居を構える静かな住宅地でもありました。首相経験者3人の邸宅もあったようにいまでも駅を少し離れると静かな住宅地になっています

戦後、駅前に闇市ができたことにより、駅前が発展していきます。闇市に輸入品を扱う店が多かったことから、庶民的な街であるとともに、オシャレなイメージももたらされました。

70年代半ば以降のことで、ロック、ジャズ、ブルースなどを流すバーが続々と登場し若者が集まり始めると、79年に開催された「下北沢音楽祭」が、「若者の街」というイメージを定着させるきっかけとなりました。1982年に元俳優だった本多一夫氏が本多劇場をオープンし、街のあちこちに小劇場を作ってからは、一躍「演劇の街」としても注目されるようにもなったのです。

現在は劇と音楽の街"という要素に加え、雑貨のお店や古着店、アンティークショップなどがたくさん集まっていて、とても個性的な商業ゾーンが形成されています。多様性に富んだ繁華街といえるのですが、小田急線によって街が南北に遮断されていることや、駅前が狭くバスが乗り入れにくいといったことが問題視され、再開発が行われることが決まりました。小田急線の地下化、駅前広場と広い道路を建設することが決められました。

しかし大きな道路もなく、車が容易に侵入してこないことで歩行者優先の繁華街として親しまれてきた下北沢の特異性が失われると反対する人も多いようです

下北沢北口駅前食品市場 下北沢駅北口に形成されたマーケット(闇市)の名残。吉祥寺のハモニカ横丁を思い起こさせるが、こちらはだいぶ規模が小さくなった。下北沢の再開発ではなくなってしまう予定

本多劇場 小劇場演劇のメッカで演劇の街下北沢のシンボル。1982年11月、本多一夫氏によって開場された。本多一夫氏は昭和30年に新東宝でデビューした俳優。役に恵まれず、昭和36年に新東宝が倒産すると、わずかな資金で下北沢でバーを開いた。俳優仲間が手伝ってくれたこともあって、事業が成功し多くの居酒屋などを経営する実業家となる。しかし、映画の世界への夢が諦めきれず、役者を目指す若者のために演劇養成所本多スタジオを設立し、その後、演劇専用劇場として本多劇場を完成させた。小劇場を次々とオープンさせ、本多劇場グループを形成し、下北沢が演劇の街と呼ばれる土壌を作った

ザ・スズナリ  当初は「演劇表現を志す若者に活動の機会を提供したい」という本多一夫の意志により、自宅に至近のアパート「すずなり荘」の2階部分を改築することで、自身が主催する俳優養成所「本多スタジオ」の稽古場として誕生した。1981年3月にここで上演された、同養成所卒業公演「黄昏のボードビル」を機に再度改装され、本格的に劇場として使用されることとなった。当時建設中だった本多劇場に先駆けた、後の本多劇場グループ系列の最初の劇場であり、下北沢が「演劇の街」と呼ばれる起源となった歴史的な小劇場である。客席数は230。1階は昭和の香り漂う飲食店街の鈴なり横丁。渋い雰囲気が素敵です。

福原病院 全国でも珍しいリウマチのプール療法ができる病院。建物は建築家の安藤忠雄が関東で初めて手掛けた建物

金子ボクシングジム 日本人初の東洋チャンピョンで第二代東洋フェザー級チャンピョン金子繁治(しげじ)さんが昭和40年に設立したボクシングジム。何人ものチャンピョンを出した。

カトリック世田谷教会 昭和21年に創立された教会。翌年、府中の墓地にあった聖堂を解体移築し現在も使用している。信徒会館は米軍のカマボコ兵舎を使用。庭にはカトリックの伝説のルルドの泉を再現している

頌栄教会 日本キリスト教団に属するプロテスタントでは日本で2番目の教会。教会の宣教の開始は、キリシタン禁令高札撤廃の翌年1874年
カナダ・メソジスト教会から派遣されたジョージ・カクラン宣教師により牛込講義所が開設され、以来133年の歴史を持ち、礼拝を続けている 。1948年(昭和23年)に牛込教会と池の上教会が合同することで設立

延命地蔵尊 延享3(1746)年建立。宝永元(1704)年の庚申塔と合祀されている。道路計画のために数m移転した

富士講碑

円海稲荷 地元旧家の屋敷神であったが近隣の人たちが共同で祀る。江戸時代の建立

池ノ上の看板建築 池田屋豆腐店 昭和3年に建てられた昭和の商店建築 元、田中洋服店 昭和10年に建てられた銅版、看板建築。もとは田中洋服店だったが、今は持ち主が変わり住居として使われている

台湾料理光春 台湾料理の専門店で美味しいと評判。食べログでも高評価

池ノ上の看板建築2 鱒夫亭    岩村たばこ店 享和40年代に建てられた斬新なファサード。小清水牛乳店 昭和30年代に建てられた看板建築で、昭和の真理波が特集されると良く紹介される建物。十二月文庫 二軒をつないで1店舗としている看板建築

吉祥院跡 駒場村と北沢村の境にあり、中興開山を圓海和尚という、往古は羽黒流、改流して何れの頃か天台宗になった。文政11(1828)年頃には廃寺。新編武蔵風土記稿に出ている
東大先端科学技術研究センター もともとは農科大学の農地であったが、関東大震災後の1923年に被災した越中島にあった東京帝大航空研究所が移転してきた。 日本海軍の零式艦上戦闘機の開発にも使用された大型風洞が現在も残されている。1964年に東京大学航空研究所が改組し、東京大学宇宙航空研究所が設置された。同研究所は1981年に文部省所管の宇宙科学研究所 (ISAS) (現:宇宙航空研究開発機構 (JAXA) ・宇宙科学研究本部)に改組されたが、1989年に相模原キャンパスに移転するまではここに本拠を置いていた。その後、1987年に先端科学技術研究センターが設置され、2001年には生産技術研究所が六本木から駒場IIキャンパスに移転してきた。現在は先端工学系の研究施設が集まるキャンパスとなっている。駒場リサーチキャンパスとも呼ばれる

先端科学技術研究センター13号館  航空研究所本館。登録有形文化財。1929年完成。設計は内田祥三門下の岸田日出刀で、駒場2キャンパスのシンボル

先端科学技術研究センター1号館  旧航空研究所風洞部研究室。1928年完成。設計は内田祥三、清水幸重。 人工的な風を発生させ風を受ける物体の運動について研究する。国産飛行機や新幹線、スキーのジャンプなどの実験が行われる

先端科学技術研究センター22号館  旧航空研究所発動機部研究室。1930年完成。設計は内田祥三、清水幸重

生産技術研究所試作工場 1951年に当時複数あった工作室を統合してできた。研究、教育活動で必要となる実験用機械、器具の設計、製作を行っている

生産技術研究所 1942年に、千葉県千葉市弥生町に、前身東京帝国大学第二工学部は、戦時体制下の技術者不足を見込んで設立された。1949年に第二工学部の後身として第二工学部内に生研は設立された。1951年に第二工学部は廃止。1952年に生産技術研究所は東京大学の附置研究所となる。1962年に、六本木の旧歩兵第三連隊兵舎へ移転した。生研跡地は千葉大学となり、一部、大規模実験施設を千葉実験所として残した。1964年、東大宇宙航空研究所(現 宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究本部)創設のためロケットグループは東大航空研究所(駒場IIキャンパス)に移転した。2001年に、駒場IIキャンパスへ移転した。大学に附置された研究所としては日本最大級であり、世界でも屈指の規模を誇る。途中で分離した航空宇宙部門をのぞく広い分野を研究領域とする。モダンなデザインは札幌ドームや京都駅ビルの設計で知られる原広司によるもの。

松陰高 昭和16年に吉田松陰の教育理念に基づいて創立された女子校。幼稚園、中学、高校、大学があるが、現在は共学

三角橋 世田谷区、目黒区、渋谷区の境。玉川上水からの分水、三田上水が流れ、さらに北沢川に流れる溝ヶ谷分水が分かれる場所の三田用水にに架かっていた橋

三田用水 寛文4(1664)年に中村八郎右衛門、磯野助六が工事を請け負い完成させた。下北沢村(北沢5-34)で玉川上水より分水し。現北品川で目黒川に合流。高輪で別れた水は赤羽橋で古川に落ちていた。享保7(1722)年に廃止されるが。沿岸の村々では農業用水として使用許可される。日本麦酒醸造会社ではこの水を使っていた。昭和40年に通水停止になり暗渠となる

古い建物 富沢輪業 昭和15年の建物 元、薪炭店 昭和初期の建築

駒場公園 江戸時代は駒場野の鷹場、明治に入り駒場農学校の鷹場になり、大正末からは前田邸。戦後アメリカ軍に接収され、昭和39年に返還されてからは都立駒場公園。昭和50年からは目黒区に移管された。門は前田家の門をそのまま使用

前田育徳会 加賀前田100万石の財宝を管理している法人。美術品、工芸品、書画典籍が90点以上あり、いずれも重要文化財で、22点の国宝がある。非公開。尊経閣文庫の本館である事務棟や書庫、什器庫、塀などが昭和3年に建設されたもので国の登録有形文化財に指定されている

旧前田侯爵邸洋館 大正の末に本郷にあった国立第一高等学校と加賀100万石の前田家本邸と、駒場農学校が土地を等価交換し移転してきた。昭和4年に前田本家16代前田利為(としなり)侯爵の本邸として建てられた。設計者は東京帝国大学教授塚本靖だったが、実際の設計は技師高橋禎太郎が担当した。英国チューダー様式で、建設当時は東洋一の邸宅と称された。東条内閣に批判的であったため、ボルネオ方面の司令官に任命され、戦死し屋敷は人手に渡った。戦後は連合軍に接収され、極東司令官の官舎となった。昭和39年に返還され東京都の所有となる。昭和42年に東京都近代文学博物館として公開されたが、平成14年に閉館。現在は土日、祝日のみ建物を無料公開している

和館 昭和5年完成の2階建て書院造りの日本家屋は、1階が洋館と渡り廊下で繋がっている。ロンドン駐在武官だった侯爵が、外人客の接待のために建てたともいわれている。前田家では日常生活は洋館で営み、ひな祭り、端午の節句やお茶会、和食の会の時に使用された。戦後は洋館と共に極東軍司令官の官舎であった。1階広間が月曜以外の日に休憩所として無料開放されている。



日本近代文学館 駒場公園内にある。昭和37年5月散逸のはなはだしい近代文学関係の資料を収集・保存するため、文壇・学界・マスコミ関係者113名によって発起され、各界に文学ミュージアム設立の欠くべからざることを訴え、発起者たちの献身と各界からの絶大な援助によって、同42年4月竣工・開館した。開館後も引き続き文壇・学界関係者の奉仕と、出版社・新聞社、その他各方面からの強い協力によって維持運営され
ている

日本民芸館本館 柳宗悦は「民衆の芸術品」を展示したいと思い、全国を廻って捨てられかけていた日用品を買い集めた。昭和11年に建った日本民芸運動の本拠となった建物と大谷石でできた塀は国の登録有形文化財。展示品には重要文化財あり民芸という言葉も柳らが作った言葉。戦前からある数少ない美術館

日本民芸館西館 もと柳宗悦の自邸で,長屋門は明治13年に建てられたもので栃木県国本村(現宇都宮市)から昭和9年に移築したもの。屋根瓦と腰下の壁を大谷石でつくる点に特徴があり,屋根が入母屋造である点が珍しい。南北に延びる塀と共に国の登録有形文化財。内部は非公開

駒場小学校 明治天皇駒場野聖蹟碑がある。明治3年4月17日に駒場野で連兵天覧御幸があったことを記念した碑。昭和12年6月、前田邸敷地内に建てられた。現在、駒場小学校内にある。駒場小学校は昭和7年に菅刈尋常小学校分教場として開設。昭和9年に東京市立駒場尋常小学校となった

東大駒場キャンパス 明治10年に駒場農学校が設立された。ドイツ農法を取り入れ西洋の近代農法を取り込んだ。その後、東京帝大農学部となり、昭和に入って、旧制一高と土地を等価交換して本郷に移った。代わりに旧制一高が移転して来て、昭和25年に新制大学に移行し、旧制一高は廃止されて東大教養学部に包括された。東大の駒場キャンパスは教養学部が置かれ、1,2年生は教養学部に属し、3年になるとそれぞれの学部に振り分けられる。一高の流れをくんだ学園祭、駒場祭など独自色を持っています。

駒場ファカルティハウス(国際学術交流会館) 研究者交流と外国人研究者宿泊のための施設。旧一高同窓会館。1937年完成。設計は内田祥三、清水幸重。最近まで同窓会館として使用されていたが、2004年3月に改築(一部新築)されて、駒場ファカルティハウスとなった(同窓会館はプレハブのものがキャンパス東部に新設された)。駒場ファカルティハウスのうち、フランス料理レストラン「ルヴェソンヴェール駒場」が入っている部分が旧一高同窓会館洋館を改築したものである(和館は取り壊され、新しい建物が建設された)。

プッチール先生、アリヴェ先生胸像 明治時代に一高の教壇に立ったドイツ人プッチールとフランス人アリヴェの胸像で明治35年に弥生キャンパスに建てられていたものが、一高駒場移転で移設され、東大紛争の時に破壊されることを恐れて長野県に保管されていたものが再建された。アリヴェは明治10年に来日し、以後25年間に亘って一高でフランス語・ラテン語・哲学・世界史を教授した。プッチールは明治17年に来日し、明治34年に東京で没するまで16年以上に亘りドイツ語・ラテン語・世界史の教壇に立った。



嗚呼玉杯之碑 戦前のナンバースクールの奇数校にはなぜか校歌が無い。校歌の代わりに歌われたのが寮歌で、そのうちの一つが嗚呼玉杯に花受けてで、一高を代表する寮歌であり、一高にとどまらず当時の女子学生の愛唱歌となり、全国各地で歌われた。

駒場農学碑 東大農学部の前身駒場農学校があり、東京帝大農学部となって昭和11年に一高と校地交換して移転した際に駒場が農学発祥の地であることを伝えるために建てられた

900番教室 (講堂) 旧制第一高等学校講堂。1938年完成。設計は内田祥三、清水幸重。正門を入って左手にある。1977年に森泰吉郎の寄贈によってパイプオルガンが設置され、定期的に演奏会および講習会が行われている。講習会は東大の学生および教職員のみが対象であるが、演奏会は外部の人にも公開されている。なお、900番教室は教養学部で最も大きい教室であり、人気のある選択科目や法学部の専門科目の講義が行われている

一高ここにありき碑 平成16年に一高開校130周年を迎え、一高同窓会が本格的な活動を終えるのに際して建てられた

一高大扉 昭和13年に完成した、内田祥三、岸田日出刀のデザインの一高の正門。東大教養学部に引き継がれた。門扉にある校章は「柏葉(はくよう)橄欖(かんらん)の章」と言う。明治19 年(1886)第一高等中学校時代に制定された帽章(日本古来の家紋「六つ柏」に橄欖を組み合わせたデザインの中央に一中の文字を配してある)をルーツとしている。明治22 年(1889)にはその中央に「國」の文字を配した校旗が制定された。校旗は今も教養学部駒場博物館に保管されているが、そのレリーフは第一本館(現在の1 号館)北側のアーケード上部に設置されている。明治27 年に第一高等学校となるにあたり、一中の文字を消去するに際して橄欖の葉にあたる部分は先端を丸くし、橄欖の実としたと推測される。因みに柏は軍神マルス、橄欖は智と美の神ミネルヴァを象徴するとされ、この章は文武両道の精神を表したものと言われる。


駒場博物館  旧制第一高等学校書庫および閲覧室。1935年完成。設計は内田祥三、清水幸重。正門を入って右手にあり、900番教室と対をなしている。外観もきわめて似ている。以前は図書館として利用されていたが、現在は1階が美術博物館(1951年開設、1971年に現在の建物に移転)、2階が自然科学博物館(1953年設置)となっている。昭和46年に美術博物館が、平成15年に自然科学博物館がそれぞれ移転してきた。両者を併せて駒場博物館と通称されており、旧制一高が蒐集した美術品や標本資料も収蔵されている。定期的に展覧会が開催されており、学内外者問わず無料で入場できる。また、旧図書館の一部は、教養学部の事務室や学際交流ホールが入った「アドミニストレーション棟(学際交流棟)」(2003年完成)となっている。建物の前にある源平桃は春には紅と白の花を咲かせる

1号館 旧制第一高等学校本館。登録有形文化財。1933年(昭和8年)完成。設計は内田祥三、清水幸重。教養学部1号館の時計台は駒場Iキャンパスの象徴となっている。本郷キャンパスの安田講堂に似ている。

植樹記念碑 松の木と記念碑。「春宮慶禮紀念之松 明治三十三年五月十日 第一眦學校生徒等植之」と刻まれている。向ヶ丘より移植されたものか詳細不明。橄欖の木と記念碑。元々は齋藤阿具一高教授が独蘭留学より持ち帰って向ヶ丘に植えたもので、一高の駒場移転に際して現在地に移植された。記念碑表面の「橄欖」と背面の「昭和八年 教授齋藤阿具寄贈」の文字は本人の自筆による。

101号館 旧制第一高等学校特設高等科。1935年(昭和10年)完成。設計は内田祥三、清水幸重。以前は教養学部経理課などが入っていたが、アドミニストレーション棟が完成してからはあまり使われなくなっている。 」

護国旗章 本館真裏アーケード上部に掲げられている柏葉のレリーフ。中央に「國」の文字がデザインされており、一高護国旗にも同じ「國」入りの柏葉が描かれている。

マンホール 東大と書かれたものから一高と書かれたものまで昔からの様々なデザインのマンホールが残されている

銀杏並木 昭和11年に森巻吉一高校長により「弥生道」と命名された。裏手には桜並木もある

矢内原門跡 正規の門ではなく、大学を囲む柵の、駒場商店街方面へ行くのに至便な位置に開けられた幅1メートルほどの通用口の名であった。矢内原忠雄が東大教養学部長の時代に、学生の試験ボイコットの際に正門がピケットにより通行できなくなったおり、学部長が自ら生垣を押し分けて通り、以後公認の通路となったと伝えられた。また、以前よりの抜け道であったが、矢内原学部長がピケ対策として「特別に門以外の場所を通行してよい」旨の告知を行ったことから学生が公然と通行するに至ったものだとも言われる。東京大学教養学部の前身である旧制第一高等学校では正規の門以外は絶対に通らないという「正門主義」があったこと、矢内原がその後も学生のストライキ等には厳しい態度を貫き、ストライキを指導した学生を退学とする「矢内原三原則」を打ち出した人物であることなどもこのエピソードの背景となっている。近年の駒場キャンパスの整備事業で、柵の位置が大きく移動し、矢内原門は消滅した。現在、跡地付近は「矢内原公園」と呼ばれる小公園となり、「矢内原門跡」という石碑が設置されている。

駒場寮跡 旧制第一高等学校から建物と歴史を受け継ぎ、一時は日本最大の自治寮であった。2001年8月22日、強制執行によりその歴史に幕を閉じた。建物は三棟(中寮・北寮・明寮)、三階建て。関東大震災後の建設であり、堅固かつ重厚。 部屋の広さは24畳であり、机と畳ベッドが備え付けられていた。天井は約4m。建設直後は「ホテルより豪華」と言われたが、後年は窓ガラスや床板など内装の損傷が著しかった。大学設備なのだが補修は稀だった。自治寮とは、新入寮生選考や退寮命令を含む大幅な管理・運営を寮生自身が行い、大学側も自治権を認める学生寮のことである。寮生のみからなる一種の三権分立(寮委員会・寮生大会・懲罰委員会)を備えていた。 広大な跡地には新図書館やコミュニケーションプラザが建てられ、中庭に旧寮のエントランスゲートの一部が記念モニュメントとして遺されている。

一二朗池 学生の間で俗に「一二郎(浪)池」などと呼ばれていた(最近になって構内の一部の案内板にも「一二郎池」と記載されるようになった)が、2008年12月に学内公募によって正式名称が「駒場池」、愛称が「一二郎池」と決定された。この池の周辺はこれまで立入禁止になっていたため、池の存在はあまり知られていなかったが、現在遊歩道を整備中である。また、この池には「入学前に一人で見ると浪人する」や「入学後に一人で見ると留年する」などといったジンクスがある。

ストレンジ先生レリーフ 一高開学130周年を記念して平成16年に建てられた、Strange先生の記念レリーフ。Strange先生は明治8年に来日し、英語を教授する傍ら欧米の近代スポーツの紹介と普及に尽力した。

ゴールドウィン東京本社 業界4位のスポーツ用品メーカー。東証1部上場。水着のスピードブランド(レーザーレーサー)を製造。輸入、販売している。

本法寺 法華宗の一派、本門佛立宗から1922年に独立した本門経王宗(本山は調布市にある宝乗寺)の本部とある

東大旧正門 農学校開校当時の正門があった、明治35年に若干位置が変わる。コンクリートの門柱が残っていたが平成17年に撤去された

目黒市場跡 昔、旧山手通り、山手通り、淡島通りに囲まれた三角地帯に青物市場があった

石橋供養塔 目黒、渋谷区境、旧豊島郡と荏原郡の郡境、三田用水か空川に架かっていた石橋の供養塔か?文化9(1812)年の銘がある 

松見坂 和田義盛の一族と言われる大和田道玄という山賊が松の大木に上って旅人を物色して追剥を働いていたという。その道玄物見の松があったので松見坂という名前が付いた。以前はもっと旧坂で盛り土をしてなだらかにさせられた。旧道の一部が残る。坂下には東大競ャンパスを水源とし駒場野を流れ目黒川に注いだ空川が流れ、伊達遠江守が架けたという遠江橋が架かっていたが、明治に入って、明治天皇の行幸があって、西欧技術を取り入れたドーム型の新遠江橋に架け替えられた。大正2年に道路の改修が行われ、現在も松見坂、新遠江橋になった。昭和40年代には道路の拡幅工事が行われ、昔の名残はわずかに松見地蔵尊の辺りに残されている・空川は暗渠となり、流路もはっきりしない

滝坂道 現在の淡島通り。家康が甲州街道を開くまでは府中へ向かう街道であった

駒場バラ園 明治44年に開園した歴史あるバラ園でバラの苗を育てている。車窓からバラが眺められたが、マンションが建ち、多くのバラが前田邸や駒場公園、駒場野公園に移植された。現在は規模を縮小して営業

ミラヴェル ミシュランで星一つを獲得したオリジナリティの高いフレンチ。オーナーシェフはフランスで修業した店の名前を店名に選んだ

偕行社目黒住宅 陸軍の将校の住宅があった。平屋一戸建て、大谷石の門、生け垣、四間で、台所、風呂場があり、風呂は石炭で沸かしていたという。二・二六事件の首謀者栗原安秀が住み、坂下には山下泰文歩兵第三連隊長(後に大将)の屋敷があった

松見坂地蔵尊 駒場の村境、東の入口を守り悪疫などの侵入を防いだ。手水鉢には享保11年の銘があるので今から380年以上前に建立されたことがわかる

大教寺 正保二年(1645)に身延山末として日達上人が高井戸村(杉並区内)に建立した寺だ。第10世正保院日住上人の時盛んになり、正徳三年(1713)馬引沢村(世田谷区内)に移転、その後寺運は傾き廃寺同様の状態に陥った。明治28年檀家総代池上光蔵・加藤信吉・加藤兵太夫が発起人となり、当時寺の寺務取扱で妙善寺住職だった井日解に謀り上目黒村(現在地)に移転、興隆した。昭和9年には本堂を新築し面目を一新した。10月21日の御会式は、中目黒正覚寺の御会式と並び称される。山手通りに面し立派な塀に階段がついている。これを上がると山門、境内は静寂な環境。正面に本堂、鉄筋コンクリート造り銅版葺きの屋根ながら、形は藁葺きの農家風。以前は玉川通りの方が表で、山手通りの方は崖だった。山手通りの開通で境内を多く削られた

大坂 大山街道随一の急坂。玉川通りの坂は昔に比べだいぶ緩和されている。旧坂も並行するが玉川通りと新山手通りに寸断されている

ナザレン目黒教会 1895年、アメリカで創立されたプロテスタントの団体。日本には1905年に伝わる

日本地図センター 国土地理院刊行の地図、空中写真の閲覧、販売が可能な財団法人

ラ・トゥール青葉台 かつては日産生命の本社があり、破綻し、あおば生命となり、後にプルデンシャル生命に併合された、その跡地にできた住友不動産の33階建ての超高層マンション。当初は44階建ての予定だったが変更された

上目黒氷川神社 上目黒村の鎮守で、天正年間(1573〜92)に村の旧家加藤氏が甲州上野原の産土神をこの地に迎えたのだといわれている。祭神、は素佐之男命を主神に、天照大神・蒼稲魂命・菅原道真が合祀されている。神社正面の小松石造り52段の階段は文化十三年(1816)に建設され、明治40年に(1908)改修された。この石段下の左には、石段の修築記念碑・石坂再建供養塔と天保十三年(1842)に建てた「大山道」の石造道標がある。境内には、花崗岩造りの4基の鳥居、小松石造りの1対の狛犬、目黒元富士から移した仙元講の碑など数多くの石造文化財が保存されている。

目黒富士 代官山に近い上目黒1-8に上目黒村の人達が信仰した富士塚があり、元富士と呼ばれていたが、明治11年に取り壊され、石祠や講の碑は上目黒氷川神社に移された

キャラバルーンジャパン 竹内まりややせんだみつお、萬屋錦之助が所属した芸能事務所。イベントで仮面ライダーの巨大バルーンなどレンタルしている

大橋ジャンクション 首都高速3号渋谷線と、新しく開通する中央環状線のジャンクションでループ状の巨大なビルになり、頂上は平成23年開園の庭園となる。国立競技場がすっぽり入る大きさ。大橋プリズムタワーという27階建てのマンションが建ち、この辺り一帯の再開発をオーパス目黒大橋という

目黒川 烏山川と北沢川を併せて目黒川と呼び、品川区で東京湾に流れ込む。下流部は品川とも呼んだ

大橋 江戸時代は烏山川と北沢川が合流して広大な沼沢地を作り蛇池とも龍池とも呼ばれていたが、池尻のところに矢倉沢往還(大山道=厚木街道=玉川通り)が通り、川幅か湿地かが広かった。 文化年間(19世紀初頭)「上目黒村の中村勘右衛門が幕府に願い出て許可を貰い、長さ7間×幅9尺の土橋(つちはし)を架け、傍らに水車がある(新編武蔵風土記稿)」というから大凡橋長13m弱の橋だ。創架当初から「大橋」と呼んでいたようであり、その後正式に名称となった。 現在の橋は、昭和2年に架けた橋長12m20cm×橋幅14m20cmの鋼桁橋を、東京オリ
ンピック開催の同39年までに高速道路の架設とともに改修したもの。創架年は延宝年間(1673)説もある。戦前は「池尻」といえば砲兵の、「大橋」といえば騎兵の代名詞だった。だからこの町には軍人(士官)が多く住んでおり、まさに軍都そのものだった。大橋の商店街は軍服仕立・軍隊用雑貨・徽章・土産物などを扱う商店が多かった。現在この地区に学校・病院などの公共施設が多いのは軍用地の跡地利用だ

武藤工業 東証一部上場企業情報サービル企業で製図用ドラフターのシェアは世界一、

天覧台の碑 明治天皇、大正天皇が閲兵したことを記念した碑

都立芸術高校 昭和25年都立駒場高校に芸術科として設置される。同47年都立駒場高等学校より独立、「東京都立芸術高校」として発足。
 音楽科は、鍵盤楽器(ピアノ)・弦楽器・管弦楽器・打楽器・声楽・楽理・作曲の7コース 美術科は 日本画・油絵・彫刻・デザイン・芸術学の5コース 男女共学だが、85%以上は女子。大半は1時間30分以上かけて通学している。卒業生に泰葉が居る

駒場東邦中、高 昭和32年に東邦大学が設立した中高一貫制の男子校で、都内有数の進学校。制服は旧制府立一中が採用していた大日本帝国海軍型の制服をモデルとしていると言われている。OBにはウナギイヌや仮面ライダーの怪人などの声優池水通洋、数学者の秋山仁、小説家の浅田次郎などがいる

屋内社劇場跡 近衛輜重兵大隊跡に凸凹したコンクリートの建物がある。これはかつて屋内射撃場として使われていた軍施設。射撃に対する耐久性と防音性を兼ね備えるべく壁の厚さが30cmもある。また屋根や側面が複雑な凹凸になっているのも防音効果を狙った形状らしい。以前は日通が倉庫として使っていたが、今は別の業者が同じく倉庫としてしている他、防音性を活用して音楽用の貸スタジオとしても利用されている。

馬神碑 騎兵第一連隊のあった名残で戦没軍馬を供養したもので昭和5年に建立された

忠魂碑 明治29年に騎兵第一連隊長だった秋山好古が征清の役戦死者哀悼のために建てた碑。この辺りを騎兵山と呼ぶ

駒場野 駒場の地名の由来は古代に馬牧場があったことによる。 この辺りは代々木原から続く原野で、江戸以前から駒場原・駒場野と呼ばれた15万坪の原野で、享保以来幕府の御鷹場となり諸役御免(非課税)の地だったが、鳥見役所が置かれ目黒方面の鳥獣の管理をした。権兵衛が種蒔きゃ烏がほじくる 三度に一度は追わずばなるまい この里謡は、伊勢の相賀村の鉄砲の名人の権兵衛とも、駒場の餌付け御用を務めた綱差川井権兵衛のことを歌ったものともいわれるが、彼はキジ捕り名人だった(目黒区史)。屋敷跡というのが渋谷区富ヶ谷にあるらしい。駒場野は淡島通りの北部一円で、淡島通りは滝坂道ともいうが、家康が四谷〜調布の甲州街道を敷設するまでの府中道(甲州街道)だった。幕府が駒場野を扼したのは、この街道を攻め寄せてくる敵を抑える意図を含む。鷹狩は将軍の気ままで贅沢なお遊びではない。将軍に義務付けられた軍事演習である。また鷹場・鶴場・鷭場・御留は自然保護・乱開発防止などの隠れた目論見もある。 慶応三年(1867)幕府は将軍の鷹狩り場だった駒場野を軍事訓練所とするための建設工事に取りかかった。しかし近隣の農民に何の補償も示さなかったため、彼らは激しく抵抗。「幕府、武蔵国荏原郡駒場野一帯を上地して散兵伝習調練場としたため、農民騒擾おこる」とある。駒場野の農民は、将軍の鷹狩りのためにいつも迷惑していた。奉仕ばかりでなく、畑や田圃が荒らされても我慢させられてきた。その怒りが爆発、駒場野の番人小屋などを打ち壊すなどして建設そのものを中止に追い込んだ。更に幕府はその東の渋谷の中豊沢村などにその矛先を差し替えたが、そこでも猛烈な反対に合い、結局断念せざるを得なかった。これを駒場野一揆という。幕府は高島平に転じたが、そこでも猛烈な反対のため計画倒れ、幕府の権威は地に堕ちた。 しかし維新後は、明治政府は強権を発動、農民の反対などものかわ、この街道を挟んで一円は軍事施設が甍を競った。騎兵聯隊が駐箚すると駒場野は調練馬場となった。戦後軍用地は住宅団地・学校用地・駒場野公園・入試センター・病院・警察用地などなどに変っている。

近衛師団近衛輜重兵大隊跡  2丁目19〜21番・世田谷区池尻4丁目4〜6番を占めていた日本陸軍輸送部隊の一つ。近衛師団麾下の食糧・補給・輸送任務部隊。移転してきたのは明治25年である。昭和11年聯隊に昇格。太平洋戦争では近衛師団が3つになったため近衛第二師団に属した。

筑波大学附属駒場中学校・高等学校 国立高等学校では唯一の男子校でもある。筑波大学の附属校であるが、筑波大学への特別な内部進学枠は有していない。東京大学への高い合格率と共に、私服校で。「駒場の自由」という言葉で語られる[要出典])自由な校風で知られる。現在は、文部科学省からスーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定を受けている。明治22年「東京農業教育専門学校附属中学校」として開校。 ※ 東京農業教育専門学校は、昭和12年に帝国大学農学部附属農業教員養成所から改組された農業教育に係る教員養成のための師範学校であり、その淵源は明治11年に設置され、黎明期の日本近代農学の発展に大きな役割を果たした駒場農学校に遡る。 同25年附属高等学校を設置。同27年東京文理大学、東京高等師範学校、東京農業教育専門学校、東京体育専門学校の4校が統合して東京教育大学となったことに伴い、「東京教育大学附属駒場中学校・高等学校」と改称。同31年この年の中学入学者から中・高一貫教育となる。同53年「筑波大学附属駒場中学校・高等学校」と改称。中1、高1のみ。1878年の駒場農学校開校以来、130年の歴史を有する日本農学発祥記念の地「ケルネル田んぼ」において毎年6月に田植え、10月に稲刈りをする。収穫した米は入学式と卒業式の折に赤飯にして、新入生および卒業生に供される。OBは官僚や学者を輩出。他には俳優の矢崎滋、声優のたてかべ和也(ジャイアン、ゴリライモ)演出家野田秀樹、アナウンサーの松平定知がいる。軍事施設の跡も残る。門は騎兵第一連隊の門と同じ位置に建っている。付属中には煙突に使われていた塔が残る。

駒場地蔵 駒場村の西端を守る地蔵。疫病をここで防いだので〆切地蔵とも呼ばれる

愛隣会 旧兵舎(東部第17部隊)を利用して昭和21年に設立された社会福祉法人

こまばエミナース 運営母体が社保庁。昭和54年10月オープン。「エミナース」はフランス語の「Eminencs」で、「丘」を表す。「国民年金中央会館」というのが本名で、レストラン、会議室、結婚式場、宴会場、大ホール、チャペル、文化学園がある

都立駒場高校 江戸時代には幕府の薬草を栽培する薬園があり、御用屋敷があった。明治35年麻布日ヶ窪(現港区立六本木中学校)に「東京府立第三高等女学校」として開校。戦前から女子高等教育の名門としてその名を馳せ、「浅草の一女(白鴎高校)・小石川の二女(竹早高校)・麻布の三女」として並び称されていた。戦後の学制改革により男女共学に移行した後も、各界に多彩な人材を送り出してきた。特に都立全盛期において、女子では最難関校の一つに数えられた。 昭和18年都制施行により「東京都立第三高等女学校」と改称。同21年戦禍により現在地に移転。同23年学制改革により「東京都立第三女子新制高等学校」と改称。同25年男女共学化、普通科に芸術科・保健体育科を併設して全国初の綜合高校となり「東京都立駒場高等学校」と改称。近代的な校舎や複数のアリーナ、開閉式のドーム型温水プールなど都内有数の設備を持つ一方で、昭和天皇の皇后、香淳皇后が皇太子妃として内示された大正7〜13年の成婚までの14〜20歳までの期間、皇太子妃として教育された建物、仰光寮が昭和26年に麻布から移築されて保存されている。卒業生には小森和子(映画評論家)・岸朝子(料理評論家)・・加藤登紀子(歌手)・吉永小百合(女優 昭和35年入学、翌年転校)阿木燿子(作詞家 昭和36年入学 翌年転校)・長谷直美(女優)などがいる

こまばアゴラ劇場 劇団青年団を主宰する劇作家の平田オリザ氏(オリザは本名)が支配人を務める劇場

聖徳寺 浄土真宗本願寺派の寺。寛文三年(1663)山梨県都留に開かれた寺で昭和2年に現在地に越してきた。本尊は阿弥陀如来。

日本工業大学駒場中、高 明治時代の創立から工業に特化しており、中学から大学まで工業の一貫教育が行われた。日本工業大学付属東京工業高校と呼ばれていたが、2006年に共学化し、2008年には普通科を設置したために工業高校を名乗れなくなって改称した。歌手の河村隆一や俳優の市原隼人が中退している。河村隆一が100周年記念歌を作詞作曲した

駒場野公園 明治10年に開校した駒場農学校は欧米の先進農業を学ぶ場所だった。明治19年東京山林学校と合併して「東京農林学校」となり、同23年「帝国大学農科大学」となった。さらにその後は「東京帝国大学農学部」「東京教育大学農学部」となり、昭和53年に東教大農学部が筑波に移転するまで駒場は農業教育の一中心地だった。東京教育大学(筑波大学)の農学部がつくば市に移転した後 半分が公園として整備され、昭和61年に開園した。 広さ2.8haの園内には、雑木林や水田(ケンネル田圃)があって、かつての駒場野の面影を残して、野鳥なども数多く生息している。近代農学発祥の地だ。他の半分は入試センター、国際高校になっている。

ケルネル田圃 クラーク博士で有名な札幌農学校がアメリカ式の農業を基本としたのに対しドイツ農法を柱とした。明治14年に赴任してきたオスカー・ケルネル(ケンネル)は、彼は水田の土壌の研究と稲作肥料の研究に多くの業績を残し、古来から日本で用いられてきた人糞尿・大豆粕・干鰯などの肥料や伝統的農法を積極的に研究し、近代的視点から評価や批判をし、我国の水耕農業に大きな足跡を残した。また日本で初めて化学肥料の使用を試みた。日本人教師としては群馬県出身の優れた農業指導者船津伝次平(ふなつでんじべい)がいた。彼が学生たちと開墾した実習田で、ケルネルが土壌や肥料の改良に取り組んだ。船津はそれまでの日本農法に西洋の近代農法を積極的に取り入れた。入り口に近い低地には、船津が開墾しケルネルが実習に使った水田がケルネル(ケンネル)田圃と名付けられて保存されている。井の頭線の駒場駅近くに見える水田群だ。目黒区内の残された唯一の水田で、今も筑波大附属中学・高校生がそこで体験学習を行っている。また北区飛鳥山の児童公園内には故郷赤城山麓に向かって建てられた「船津翁の碑」がある。

都立国際高校 平成元年開校。都立高校としては唯一の国際学科を設置している学校で、同18年度の大学センター試験では英語の学校平均点が文京区の桜蔭に次いで全国2番目の実績/語学力に自信ある生徒が広く集まっている。入試問題は英語のみ自校作成問題を導入し
ており、その難易度は他校とは一線を画し、高度な英語力が要求される。男女共学であるが女子の比率が高く、3〜5:1程の割合だ。帰国生枠や在京外国人枠もあり帰国子女からの人気も高い。

大学入試センター 独立行政法人で、日本の大学の共通入学試験である大学入学者選抜大学入試センター試験(一般にはセンター試験)を行う

小祠 詳細は不明 代田村の駒場村との村境にある。村境を守るために祀られたものか

駒場学園高校(旧陸軍獣医学校跡) 1947年5月 – 旧陸軍獣医学校跡の現在地に日本装蹄学校として開校(現在は装蹄畜産科は廃止され普通科と食物科のみ)卒業生には俳優の岡本信人、コメディアンの青空好児、ベイスターズの那須野巧、タレントのベッキーなどが居る

富士見坂 淡島通りの坂。富士山が見えたことがその名の由来

宇野千代旧居 小説家の宇野千代が東郷青児と建てた白い家があった

インド大使次席公邸

田村泰次郎旧居跡 肉体文学(第二次大戦敗戦直後、肉体のみが唯一の信頼しうる現実であるとした風俗小説の一傾向)作家の田村泰次郎が風景の良さから移ってきた。タムラマンションにその名残を残す

アンゴラ大使館 アフリカ南西部にある国で、首都はルアンだ。ポルトガル植民地でラテンアメリカへの奴隷供給源だったので人口希薄。内戦が続き社会主義国家だったこともある。2002年に内戦が終了し。2005年に日本大使館設立。石油やダイヤモンドなどの輸出で貿易黒字国

東京聖三一教会 英国聖公会を母体とする教会で、文明開化の時期に築地居留地に設けられた教会が、青山に移り、さらに昭和34年に現在の地に建てられたのだそうです。関口宏と西田佐知子、堺正章の最初の結婚式が執り行われたそうです

横光利一邸跡 川端康成と共に新感覚派として活躍した小説家、俳人。雨過山房と呼んだ自宅があった。雨過は横光の雅号g

池ノ上の看板建築 魚春 昭和25年に建てられた昭和の商家建築。会津屋酒店 昭和20年頃の近代建築

由諸堂書店 以前は古い建物であったが改築された。解体新書の本物が持ち込まれたこともあるという

サザエさんの壁画 池之上小学校にある壁画で昭和58年制作。長谷川町子のサインの入った本物。校庭の松の木は地域風景遺産に指定された

池ノ上駅 今の駒場学園のあたりに北から南に延びた細長い池があって、その上の高台を池ノ上と呼んだ

馬頭観音と庚申塔 下北沢村の中心から池ノ上の高台に上がった古い道筋にある。昭和5年にこの地の旧家月村氏が建立・大正10年に北沢1丁目あたりの旧家新井氏など数家が建立した

富士見丘教会 1935年に設立されたプロテスタント教会で、建物は国の登録有形文化財に指定されている。昔は富士山も望むことができたのでその名がつけられた

露崎商店跡 昭和12年に建てられた近代建築で、アンティークの店など入っていたが2008年に取り壊された

石川淳旧居跡 芥川賞作家の石川淳が住んでいた

稲荷社 

大岡昇平旧居 小説家、評論家、フランス文学評論家の大岡昇平が住んでいた

森巌寺川   北沢川の支流。戦後、ドブ川化して暗渠となった。公園には踏切の形をした井戸ポンプがある

森巌寺 慶長十三年(1608)徳川家康の次男中納言結城秀康の位牌所として建てられた。秀康は越前一乗寺の万世和尚に帰依し、臨終の枕
辺に和尚を呼び黄金若干を賜い、「自分のために1寺を建立するよう」に命じたが、和尚も年老いていたため弟子の孫公和尚にそのことを譲った。和尚は好地を求めて巡錫し、現在地に来て1寺を建立、秀康の法号「浄光院殿森厳道慰運正大居士」から院号寺号を命名した。建物に三葉葵(みつばあおい)の徳川紋が見える。建立には下北沢村の開発者、吉良氏の遺臣膳場将監のよることはその墓碑に詳しい。創建時の堂宇は、文化九年(1812)に焼失し、天保十五年(1844)に再建したが、昭和39年再度の火災により焼亡した。創建時の建物は淡島堂だけとなった。現代的なデザインのガラス張りの建物は弁天堂だ。境内に樹齢400年の公孫樹が一対。お灸と2月8日の針供養で知られる淡島神社が
ある。開山の清誉孫公和尚は紀州の人で、常に腰痛の持病に悩んでいた。ある夜夢枕に産土神にが故郷名草郡加田の淡島明神のお告げがあり、その通り灸治を行うと積年の苦しみを免れることができた。そこで加田の淡島明神に分社を請い境内に勧請した。代々の住職が灸治の法を
相伝し、毎月3と8の日に諸人に施した。この灸は特に江戸病(脚気衝心)、リューマチ、神経痛にに特効があると人気を集め、月6回の灸治の日には数千を超える人が集まり商家なども並び門前町の賑わいを見せたという。現在も3と8の日には灸治は行われている。いま境内に残る石灯籠・天水桶・狛犬などは盛時を偲ばせる。毎年2月8日境内の針塚で「針供養」行われる。

北沢八幡 祭神は誉田別尊(応神天皇)・息長帯比売命(神功皇后)。文明年間(1469〜87)勧請と伝え、下北沢村の鎮守だった。別当寺の森巌寺が文化九年(1812)に炎上したので一切の古文書記録を焼失、由緒は明らかでない。しかし慶安三年(1650)当時の領主斉藤摂津守の7石4升の寄進黒印状の写しや、天和二年(1682)の八幡宮拝殿額(盗難亡失)などの存在は早くより人々の尊崇を集めていた証となるだろう。現在の本殿は嘉永五年(1852)、幣殿・拝殿は大正九年の改築、神楽殿は明治26年の新築だ。安永二年(1773)銘の八幡神像・嘉永四年(1851)補修名の八幡座像・嘉永七年(1854)銘の七沢八社随一正八幡宮拝殿額などを所蔵する。また文政七年(1824)銘の斉田東野筆手洗石が水舎にある。この神社のことは『嘉陵紀行』にも記されている。祭礼は9月15日だが、現在は9月の第一土曜日に行っている。

阿川家 この地域一帯の名主だった阿川家の赤門が残る。鷹狩りの将軍が休憩するほどの家柄で、一帯は阿川の森といわれる広大な屋敷だった。今はマンションなどになり赤門だけが残る

佐藤、竹下邸跡 戦前に三井合名会社が建てた広大な庭付き木造住宅があり、佐藤栄作の権力の館となった。後に竹下登の邸宅になった

ヤマメの恩返し伝説 代沢2丁目2・3番地あたりにあった大きな池でのお話なのですが、ここは明治の頃は下北沢村字会の辻(あいのつじ)という地域だったそうです。この池はとても大きく、この池の南端が「池尻」だったそうです。池にはとても大きな魚が一匹いて、ヤマメに似ていたそうです。淡島のお灸がおこなわれたある日、東京の人が森厳寺に向かって賑わいを見せる中、その中の若い衆二人が池の魚をいじめていました。そこを通りがかった松之助という少年がその若い衆をたしなめ、(結局この若い衆に松之助は殴られてしまうのですが、)魚をかばいました。
するとその夜池の主の魚が夢にでてきて、松之助に礼をしたあと、秋に大水がでてこの辺り一体が水浸しになるということを教えてくれました。お陰で何十年ぶりといわれた北沢川の氾濫も、この村では被害が少なくて済んだそうです。

北沢川 上北沢を水源とする自然河川であったが、万次元(1658)年に北沢用水を開削し、玉川上水水を導きいれた。取水口は始め久我山にあったが、上高井戸に移された。江戸時代は世田谷五か村の灌漑用水であった。毎年、大雨が降るたびに氾濫したので昭和24年に護岸大改修の工事が行われた。池尻で烏山川と合流し目黒川となり、品川で海に注いでいる。現在は暗渠となり、一部でせせらぎを復活させた親水公園になっている

代沢せせらぎ公園 新宿の落合水再生センターから送られてきた高度処理水を、この公園の下でさらに浄化して北沢川のせせらぎに流している。北沢川のせせらぎは桜並木でせたがや百景に選ばれている

森茉莉旧居跡 森鴎外と二人目の妻から生まれた、森鴎外の長女。小説家、エッセイストとして晩年まで活躍した

代沢ハウス 森茉莉が創運荘が建て替えられたために転居したマンションで昭和48年から7年間住んだが、ボヤ騒ぎなどで契約更新できず、経堂のフミハウスに転居し、1987年に85歳で亡くなった

創運荘 森茉莉が23年間住んだアパート。建て替えのために転居した。近くにある邪宗門で様々な作品を執筆した

稲荷社 

地蔵尊

加藤楸邨旧宅跡 俳人で国文学者。昭和16年〜20年まで住んでいた

代沢湯跡 森茉莉が入りに行っていたという銭湯ですでに廃業した

安吾文学碑 昭和初期の文人坂口安吾が大正14年に代用教員をしていた小学校に、大田区東矢口にあった坂口家の旧宅門柱を移設して作った文学碑

代沢小学校 明治13年に伊東伝吉氏宅に代沢学校が開かれて代沢小学校のルーツとなる。創立129年。坂口安吾が代用教員を1年間勤めた

二子道 江戸時代には二子道と呼ばれていた古道

田中英光旧居跡 無頼派の作家で太宰治の弟子。太宰治の墓前で自殺した。

鮨福元 ミシュランガイド2009で星一つ取った。世田谷区で唯一掲載されているお店

庚申堂 享保年間(1716〜)に村の辻に建てられたという庚申堂。ダイダラボッチ川と森巌寺川の合流点にある

踏切地蔵 昭和11年に踏切で亡くなった少年の慰霊などで建てられた地蔵。をまもり地蔵ともいう

静仙閣跡 詩人の北川冬彦、映画監督の成瀬巳喜男。小説家の一色次郎、中山義秀らが住んだ高級アパートがあった・アパートの前には宝暦(1713)年銘の地蔵があった

都民教会 プロテスタントの一派で会衆派教会(会衆制とよばれる教会員の直接民主制に近い制度を採ることが特徴で、各個教会の独立自治を極めて重視する)1918年(大正7年)7月4日に「東京の市民の精神をキリスト信仰で養う」との理想を掲げた「東京市民教会」が誕生しました。1943年に都制が敷かれたのにともない、現在の「東京都民教会」に改称されました。1975年に千駄ヶ谷から移転

長谷川家住宅 小田急線開通後,箱根土地が丘陵地に開発した守山分譲地に建つ。昭和10年頃に建てられた。大正〜昭和初期の洋風建築。国の登録有形文化財

永正寺 曹洞宗のお寺。詳細不明

真龍寺 小田原大雄山最乗寺の末。せたがや百景のひとつ。本尊は道了薩捶(十一面観世音)で、明治時代始めに原担山大和尚が自作し、巡回本尊として関東一円の巡錫を行っていたが、昭和4年伊藤道海禅師により、北沢の守護神として現在地に1寺を建立して安置した。これが現在の真龍寺だ。毎年節分の催しとして「天狗道中」が行われるが、そこから派生して下北沢名物の「天狗祭り」が盛大に行われている。

一番街商店街 下町的雰囲気を残す商店街 8月には阿波踊りが行われる

庚申堂 3基あり中央はもともとこの地にあったもので左右の二基は北沢2-40(成徳学園)の辻から合祀されたもの。右のものには元禄5(1692)左側のものには延宝7(1677)年の銘がある。集落の境目に建てられている

薩摩稲荷 松平薩摩守下屋敷にあった屋敷神なので薩摩稲荷という。もともとは今の場所から1〜2ブロック東にあって、現地の住民に信仰されていたが、明治の末に北沢八幡に合祀された。しかし地元の人がお参りに行くのに不便だということで連れ戻す形で現在地に移った。小字名から野屋敷稲荷ともいう

長命地蔵尊 昔からあった野地蔵を大正5年2月に地元の人がここに祀ったという

アルテフラメンコ 日本最大級のプロのフラメンコダンサーや講師を育成するダンススクール

豊世稲荷 三田用水の土手の草むらに埋もれていた祠を地元の人が祀ったもの。初午、正月、9月、5月には祭りがおこなわれていた

石仏 貞享年間(1684〜1687)に造られたもので、近辺の道路に散在していたものをここに集めた。庚申塔、石塔、立像。座像がある

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7月5日(日) 閑静な住宅街を歩く目黒〜世田谷散歩
7月5日(日) 閑静な住宅街を歩く目黒〜世田谷散歩

下北沢駅をスタートして北沢〜駒場〜大橋〜代沢〜北沢と歩きます。緑豊かな駒場には東大があったり、東大の駒場キャンパス内を散策、構内や沿道にも昭和初期の洋館、和風建築があります。都内有数のハイソな街もあり、目黒、世田谷の閑静な住宅地を歩きながら、下北沢に至ります。今年はryotaくんが下北沢のショップ系を中心とした散歩を行っているので、下北沢界隈は史跡を中心に歩きたいと思っています。目黒、世田谷の風情を楽しみましょう!

当初の予定から変更致します

下北沢駅9時集合

下北沢駅〜本多劇場〜スズナリ〜金子ボクシングジム〜カトリック世田谷教会〜三角橋(三田用水、溝ヶ谷用水跡)〜東大先端科学研究センター〜旧前田侯爵洋館、和館〜日本民芸館、西館〜明治天皇駒場野聖蹟碑〜嗚呼玉林之碑〜駒場農学碑〜ここに一高ありきの碑〜東大養学部〜旧第一高等学校本館時計台〜旧東大正門〜松見坂〜松見坂地蔵尊〜ミラヴェル〜偕行社目黒住宅跡〜日本地図センター〜大坂〜上目黒氷川神社〜キャラバルーンジャパン〜目黒川〜池尻大橋駅〜駒場野御用屋敷跡〜〆切地蔵〜駒場野公園〜駒場農学校跡〜ケルネル田圃〜アンゴラ大使館〜由緒堂書店〜池ノ上駅〜富士見丘教会〜北沢八幡神社〜森巌寺〜庚申堂〜鮨福元〜代沢小学校〜安吾文学碑〜北沢川緑道〜阿川家〜長谷川家住宅〜真龍寺〜薩摩稲荷〜庚申堂〜アルテフラメンコ舞踏学校〜東北沢駅

打ち上げが無い場合は東北沢駅解散

打ち上げがある場合は下北沢駅解散にします

途中、池尻大橋駅や池ノ上駅で合流、離脱OKです


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皇居のんびり散歩とお食事会
6月21日(日) 皇居のんびり散歩とお食事会

皇居と言えば都心の緑のオアシス。これから緑豊かな時期になってゆきますが、都心で緑の和らぎを感じながら、江戸城、皇居の歴史を感じてみませんか?都心でちょっとしたハイキング気分が味わえます

いつもよりのんびり歩くコース設定になります

夜はいつもの飲み会ではなく食事会をしながら会話と食事を楽しみたいと思っています

散歩コース(予定なので変更あり)

12時30分集合
東京駅(丸の内側工事中なので、詳細(北口か中央口)は参加者メッセージにて連絡)
新丸ビル、日本工業倶楽部、大手町交差点、AIGビル、和田倉橋、和田倉噴水公園、皇居外周【内堀通り、花の輪、巽櫓、大手門、和気清麻呂像、平川門、竹橋、北桔橋(きたはねばし)門、乾門、千鳥が淵公園、半蔵門、街路樹ゆりの木、憲政記念館、国会前、警視庁、桜田門、楠正成像、皇居外苑(国民公園)、二重橋、桔梗門】、皇居東御苑【大手門、入場札発券所、三の丸尚蔵館、お土産所、同心番所、百人番所、二の丸庭園、諏訪の茶屋、都道府県の木、二の丸雑木林、汐見坂、平川門、石垣(算木積)、梅林坂、北桔橋門(跳ね橋跡)、桃華楽堂、天守台、本丸跡広場、石室、松の廊下跡、富士見櫓、集合まで自由行動、16時45分三の丸尚蔵館前集合予定)、退出(入場札返却)】、和田倉門交差点、行幸ギャラリー、地下街通路案内板

■お食事会について■
店名: ラビラント LABYRINTHE
      http://labyrinthe.co.jp/
      http://r.gnavi.co.jp/g763313/
場所: 丸ビル 5階(千代田区丸の内2-4-1)
時間: 18:00〜
料金: 5500円 (サ込税込)
人数: 36名貸切

フランス料理店です。
食事内容は、コースで、前菜・メイン(魚または肉)・デザート・コーヒー・ワイン1杯です。メインは半々の予約を入れますので、当日選んでください。
魚は、白身魚のポワレ等、肉は、誰でも食べやすい肉(好みの分かれる羊等ではなく)を用意して頂けるそうです。ワインは、乾杯用で白赤当日選んでください。このお店は、白金、四の橋(しのはし)に本店のあるフレンチ店です。

お散歩に参加表明される方は、お食事会にも参加・不参加・考え中を明記お願いします。

食事会につきましては「31」の書き込みを参照して下さい

今回はナツさんの主催となります

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6月6日(土) 21世紀の東京に安政の江戸を探そう・・・広重の絵で見る幕末の江戸
6月6日(土) 21世紀の東京に安政の江戸を探そう・・・広重の絵で見る幕末の江戸

東京の魅力は都市風景が大きく変化していくことにあります。スクラップアンドビルトで常に変化しているのが面白い。江戸時代の江戸の風景が現代ではどのように変貌しているのか実際に歩いて見て見比べてみましょう

江戸東京文化に造詣の深い金沢支店さんの企画です

21世紀の東京に安政の江戸を探そう・・・広重の絵で見る幕末の江戸

江戸後期に活躍した歌川広重の名所絵をナビゲーターとして、江戸東京をめぐります 。日本橋から両国から水上バスに乗り浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)~虎ノ門、江戸城、京橋まで巡り、現代の東京と江戸の後期を見比べます 。幕末の江戸を思い浮かべることで、今の東京に江戸が見つかるかもしれません。歌川広重は1797年生まれの浮世絵師。15歳で歌川豊広の門下に入る。生まれは安藤家なので、安藤広重とも呼ばれる。東海道を西に登る道地を描いた「東海道五十三次絵続き」が評判となる。江戸っ子に求められたことはもとより地方へのお土産としても好まれ、さらにゴッホが模写するなどジャポニズムとして海外にも強い影響を与えた。今回は最晩年である安政4〜5(1857〜1858)年に描かれた傑作「名所江戸百景」を見ながら歩きたいと思います。

また、江戸末期から続く老舗のお店も見て行き、江戸の味を浜御殿(浜離宮の芳梅亭)で味わいたいと思います。会場は定員25名、禁酒禁煙です 水上バス代と入園料、場所代で1000円ほど)夜は嘉永3年創業の割烹嶋村で幕末会席(3800円、このメニューは30名まで) 。店長さんに江戸の食についてお話をきくことができるそうです

散歩の道のり
集合場所 日本橋
集合時刻 08:00
両国水上バス停 09:45
浜離宮を出発 12:45
虎ノ門
京橋
日本橋で散歩終了 17:00ごろ
八重洲で打ち上げ

見ていく予定の絵
(日本橋から)
日本橋雪晴
日本橋江戸ばし
鎧の渡し小網町
八つ見のはし
する賀てふ
大てんま町木綿店
大伝馬町ごふく店
馬喰町初音の馬場
(両国)
両国橋大川ばた
浅草川大川端宮戸川
両ごく回向院元柳橋
(水上バスから)
浅草川首尾の松御厩河岸
両国花火
おおはしあたけの夕立
みつまたわかれの淵
深川万年橋
永代橋佃しま
鉄砲洲稲荷橋湊神社
鉄砲洲築地門跡
芝うらの風景
(虎ノ門から御城)
芝愛宕山
愛宕下藪小路
虎ノ門外あふひ坂
糀町一丁目山王祭ねり込み
霞がせき
外桜田弁慶掘糀町
(京橋からふたたび日本橋)
びくにはし雪中
京橋竹がし
市中繁栄七夕祭
日本橋通一丁目略図

江戸時代創業の店
いせ源
榮太樓總本鋪 日本橋本店
神茂
日本橋鮒佐
日本橋弁松総本店
にんべん
越後屋若狭 
【銘茶】山本山
【海苔】山本海苔店
【扇子・うちわ】伊場仙 (広重に依頼してうちわ)
【刃物】うぶけや
【はけ・ブラシ】江戸屋
【漆器】黒江屋
【楊枝】さるや
【江戸ほうき】白木屋傳兵衛
【呉服】竺仙
【和紙】榛原
【割烹】嶋村

日程 日本橋→浅草橋→両国→(水上バス)→濱御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)→芳梅亭(濱御殿内)で食事会→濱御殿散策→愛宕山(現在の愛宕神社)→虎ノ門→御城(現在の皇居)→京橋→日本橋(散歩終了)→八重洲の割烹嶋村で食事、打ち上げ


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5月31日 勉強会
5月31日 勉強会in東京都歴史的建造物選定涼亭

勉強会というとお固い感じがしますが東京再発見らしく東京のお勉強を気楽にやりましょうという感じで

予約の都合で時間が早くなってしまいますが8:40 地下鉄清澄白河駅集合

9:00〜12;30

清澄庭園内にある東京都歴史建造物に選定された文化財の「涼亭」(明治42年の建物です)を予約しました。ここでお勉強をしましょう

内容 ○ 江戸、深川の歴史や文化についてざっくばらんに語りましょう。
   ○ 今年の散歩の復習 今年に入って歩いた場所の復習。どんな所を見たか?何を見たか?など復習したり、もう一度見てみたいあの場所を再確認
   ○ 時間があれば東京名物、東京土産などについて語りましょう

参加費 500円 定員は40名

勉強会の後は勉強会で識った深川を歩いてみましょう(ここから参加も可)

昼食 深川丼、深川飯を味わってみる(自由参加)

深川江戸資料館見学(自由参加)

その後、ゆるゆると、いつもと違うゆるゆる散歩で門前仲町まで歩きます。お不動さんや八幡様にお参りしたり、都内最古の鉄橋八幡橋(旧弾正橋)など見学します。

門前仲町にて打ち上げ

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